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【試し読み】『左川ちか全集』解説「詩人左川ちかの肖像」より(島田龍)

左川ちか全集』(島田龍編)の「解説 詩人左川ちかの肖像」から冒頭部分を公開します。

序 左川ちかの現在(島田龍)


 翻訳者左川千賀として川崎愛(一九一一~三六)が世に現れたのは一九二九年春、一八歳のこと。翌年左川ちかと筆名を改め、三六年一月に亡くなるまでの間に約九〇篇の詩、二〇余篇の翻訳詩文、一〇余篇の散文を残した。萩原朔太郎・西脇順三郎・春山行夫・北園克衛・伊藤整らに前途を嘱望され、将来のヴァージニア・ウルフ、ガートルード・スタインに例えられもした。

 その詩の一群に初めて出会ったとき、伝記的背景はもちろん、名すら知らなかったが、考えるより感じなさいとでもいうような、モダンでアヴァンギャルドな風格に圧倒された。転がる言葉と言葉がコラージュしシュールな世界を現出させる。前衛絵画のように異質な言語感覚だ。ノスタルジーやロマンティシズムといった叙情性とは程遠いクールで硬質な文体。でありながら観念抽象的な言語遊戯に陥らず、一般的なモダニズム詩には希薄な〝私〟という何者かの熱量をじかに感じた。

 〝私〟とはおそらく、川崎愛でも左川ちかでもない、何者かとしか言いようがなく、それは読み手の心の臓を直接鷲摑みにするような世界の住人だった。そして何といっても、最後のセンテンスの破壊力である。

 詩集が入手困難なこともあって幻の早逝詩人として長く神話化されていたが、近年再評価の機運が高まりつつある。中保佐和子の英訳を契機に、欧米や南米・イスラム圏など海外での翻訳が相次いでいる。試みに英仏版Wikipedia の“Japanese poetry” の項目を見ると、現代詩人として和合亮一・伊藤比呂美・飯島耕一・吉岡実らの名前が列挙され、最初の現代詩人として左川ちかの名が挙げられている。「二〇世紀初頭の日本における最も革新的な前衛詩人」(『ザ・ニューヨーカー』二〇一五・八・一八)と、海外での評価が先行しているのが現状だ。

 とはいえ、国内でも左川ちかの詩は確実にインパクトを与えている。戦時下の吉岡実が詩に目覚めるきっかけとなったのは『左川ちか詩集』との出会いだった。オマージュを捧げる詩歌人は、村野四郎らを始め現代もあとを絶たない。若いフォロワーが多いのも特徴だ。著名な一人は作曲家三善晃だろう。声楽曲『白く~左川ちかによる四つの詩』(一九六二)は代表曲の一つで、今も歌い継がれる。「作曲者のことば」(『音楽芸術』六三・八)で三善はいう。

左川ちかの詩に不思議な絶望がある 失った声 向う側の音 見えない花 そしてもう近くに居ない夏 しかしそれは艶冶な装いにくるまれ ほとんど誇り高きものの姿をして居る 微量の毒を含んだ棘が 老人を嗤ひ 少女らの指先に虚しい情感を植え 私を刺した
  「作曲者のことば」

 近年でも、青柿将大や茂木宏文、高橋悠治らが彼女の詩に着想を得て作曲しており、和賀崇平作曲のボーカロイド曲も生まれている。さらに国内外の美術家による作品も様々に制作されている。今後はサブカルチャー含め多彩な領域での受容と展開が予想される。

 昭和初期、左川ちかは〝女〟であることのセクシュアリティと孤独に対峙し、これを越境しようと試みた。モダニズムの限界を突破せんと、性と生を疾走した〝現代詩の先駆者〟といえよう。

 今後はモダニズム詩の枠組みのみならず、様々な文学・絵画・映像表現や翻訳トレンドなど同時代の横断的な表現と言説・メディアの中で、その詩風の誕生と変遷を丁寧に読み解くことが必要だと考える。かつての金子みすゞのように、早逝の女性詩人として、さらに超越的な存在として神話化されてきた表象を脱神話化する作業でもある。適切なテキスト理解と研究の進展のために、彼女の作品を校訂・網羅する書物が多くの読者に読まれることは大きな一歩だ。そのようにして初めて私たちの隣に彼女の言葉がちょこんと姿を現すように思う。本書がその契機となることを祈念しつつ、今なお人々の心を捉えて離さない左川ちかについて、いくつか話をしてみよう。


『左川ちか全集』島田龍編

四六判、上製、416ページ
定価:本体2,800円+税 ISBN978-4-86385-517-5 C0092
装幀:名久井直子 装画:タダジュン

詩の極北に屹立する詩人・左川ちかの全貌がついに明らかになる──。
萩原朔太郎や西脇順三郎らに激賞された現代詩の先駆者、初の全集。
すべての詩・散文・書簡、翻訳を収録。編者による充実の年譜・解題・解説を付す。

【著者プロフィール】
左川ちか(さがわ・ちか)
詩人・翻訳家。本名川崎愛。1911年生まれ。北海道余市町出身、十勝地方の本別町で幼少期を過ごす。庁立小樽高等女学校卒業後に上京。10代で翻訳家としてデビュー。J・ジョイス、V・ウルフ、ミナ・ロイなど、詩・小説・評論の翻訳を残す。1930年に筆名を「左川ちか」と改め詩壇に登場する。同郷の伊藤整を始め、北園克衛・春山行夫・西脇順三郎・萩原朔太郎らに高く評価、詩誌『詩と詩論』『椎の木』『マダム・ブランシュ』などで活躍した。将来を嘱望されたが1936年に死去。享年24。J・ジョイス著/左川ちか訳『室楽』(椎の木社、1932年)、遺稿詩集『左川ちか詩集』(伊藤整編・昭森社、1936年)。本書は初の全集となる。

【編者プロフィール】
島田龍(しまだ・りゅう)
東京都中野区出身。立命館大学文学研究科日本史専修博士後期課程単位取得退学。現・立命館大学人文科学研究所研究員。専門は中世~近現代における日本文化史・文学史。関連論考に「左川ちか研究史論―附左川ちか関連文献目録増補版」(『立命館大学人文科学研究所紀要』115号)、「左川ちか翻訳考:1930年代における詩人の翻訳と創作のあいだ―伊藤整、H・クロスビー、J・ジョイス、V・ウルフ、H・リード、ミナ・ロイを中心に」(『立命館文学』677号)など。

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