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【試し読み】『小さな町』(「一 反作用」より)



『小さな町』(「一 反作用」より)


一 反作用
       ――笑いは離れさせ、苦痛は戻ってこさせる

 私の夫は三十六歳だが、新聞や雑誌を切り抜いてスクラップしている。昔の人みたいに。もちろん、夫は昔の人ではない。彼はかれこれ十年余り、芸能プロダクションに勤めている。初めの数年間は、自分が担当している芸能人と、それに関連のある記事を整理するのがスクラップの目的だったが、いまは自分が重要なポジションにいるのを実感したくてやっているようだ。べつに私は夫が無能だと言いたいのではない。むしろ有能だと思う。有能な社員であり、有能な夫。彼は自分が母子家庭でどれだけ苦労してきたのかを話すのが好きだ。それが自分を引き立ててくれると思っているから。あと、着実にライフプランを立てるタイプだ。ある時期までは子どもを作りたくないからと、非永久的な避妊手術も受けた。母は生存中、よく私にこう言った。「彼みたいな人に会えたのは、またとない幸運なのよ。それももったいないくらいの。ようく覚えておきなさい」。ここで私が言いたいのは、毎朝ハサミで何かを切り抜き、糊でくっつける単純な行為が、何よりも夫を高揚させているように見えるということだ。彼はその行為をやめないだろう。当然だ。そうすることで自分がこの世で一番価値のある人間だと思えるのなら、どこの誰が拒むというのだ。
 夫が仕事に出かけたあと、私は時々彼のスクラップブックを開いてみる。いや、もっと正確に言うなら、「こっそり」という単語を添えた方がいいかもしれない。「こっそり開いてみる」。でも、これは正確な表現だろうか。夫はべつにスクラップブックを隠してはいない。そうかといって自分がスクラップをしていることを他人に話すわけでもなければ、私の口から誰かに話すのを望んでもいないだろう。ところが家の中では違った。彼はスクラップブックを食卓の上に置きっぱなしにしていた。広げたまま仕事に出かけることもよくある(切りかけの紙とハサミ、糊、など!)。「こっそり」なんて言い方をしたら、まるで私が夫のスクラップブックを見たくてたまらないと思っているみたいだ。でもそれは違う。私はここ数年―不定期的に―大学で現代日本文学について講義をしているのだが、仕事のない日は、コーヒーを淹れて食卓の前に座って時間を過ごす。そんなとき、夫のスクラップブックを開いてみるのだ。そこにあるから。ただそれだけだ。他に理由はない。スクラップされた記事や文章に興味をそそられたこともなければ、夫に隠れて読もうと思ったこともない。これまで夫に「これ、読んだ?」と訊かれたことはないけれど、もし訊かれたら当然、読んだと答えるつもりだった。夫のスクラップは雑多で、原則や規則があるようには見えない。単に自分の興味を引くもの、あるいは逆にまったく興味を引かないものを、手当たりしだいに切り抜いて貼りつけているのだろう。私は時々、夫の真の関心事は何だろうと考えてみる。
 実を言うと、夫のスクラップブックが役に立つときもある。授業中に学生たちが退屈でたまらなそうにしているときや、彼らの気を引きたいときに、私は夫のスクラップブックで見た記事について話す。何日も続く外国の山火事、幼児の誘拐事件、伝染病、高齢者の集団自殺、韓半島の南部で起こった強い地震……など。前学期の最後の授業で、ある学生が質問があると手を挙げた。彼女はとてもまじめな顔でこう言った。
「教授はどうしていつも、恐ろしい事件のことばかり話すんですか」
 私はため息をつき、少し芝居がかった口調で答えた。
「私は教授じゃなくて、ただの時間講師だって何度も言ったはずですけど? この教室で私が話すことなんてみんなすぐに忘れてしまうのね」
 私は時々こんなふうに、あらゆる状況を冗談として受け流そうとした。「他人とつまらないことでいがみ合うんじゃないわよ。笑って聞き流せばいいの。出る杭は打たれるんだから」。私は幼い頃から、母に嫌というほどこう聞かされてきた。冗談は、私の思いついた最高の防御だった。時には思いもよらぬ形で得することもあった。たとえば夫に初めて会ったとき、彼は私の冗談が好きだと言った。それどころか、プロポーズをするときもこう言った。「君の冗談を一生聞いていたい」。でも彼が気に入ったのは、私が困難な状況下でも笑って受け流すところだったのかもしれない。結婚後、私たちが喧嘩をするたびに夫は言った。あたかも私が何でも笑い飛ばす人間だと固く信じていたかのように、そうでないのは夫を欺く行為だとでも言わんばかりに、「ああ、君がこんなに深刻になるとは思わなかった」と。そしてさらに時が過ぎると、その言葉はこう変わった。「ああ、俺はいま忙しいから、           
 そんな話をしている暇はないんだ。君は毎日仕事に行くわけじゃないから、わからないだろうけど」
 それはともかく、教室での私の冗談は受けがよかったし、たいていの学生は大笑いした。質問をした学生は困った顔をしたが、そのうち周りの学生につられて笑った。それだけだ。私が質問に答えてやる必要はない。なぜなら、彼らはそんな質問をしたことすらすぐに忘れてしまうからだ。たとえ覚えていたとしても、大笑いしたあとはどうでもよくなる。まさにそこがポイントだ。笑いは爆発的に関心を集めることもあるが、笑い終わるとその笑いを取り巻く状況は元のさやに収まる。人は誰も消えゆく笑いのしっぽを摑んでいたいと思うので、笑ったあとは私が話そうとしたことからどんどん遠ざかっていく。(その学生の言葉を借りると)恐ろしい話、苦しい話は逆だ。それらの持つ不吉な空気は彼らにまとわりついて離れようとしない。そこから逃れるためには、やむをえず外部のもの、つまり私の声に耳を傾けるしかないのだ。
 反作用――笑いは離れさせ、苦痛は戻ってこさせる。これが私の理論だ。夫はそんなのでたらめだと言う。夫は時々そういう言い方をする。とてもストレートな物言いを。彼は多くの人に会って交渉したり、説得したりする仕事をしている。だから、正確でストレートな物言いはしないはずだ。なのに彼は―「君の理論はまったくのでたらめだ」と言ったように―ストレートな言い方をするときがある。
 たとえば、私の母が亡くなったあと、父について言ったときもそうだ。
 母は昨年の五月に胆嚢がんで亡くなる前、私にできるだけ多くの話をしようとした。私が病室に入ると、介護人に席を外させて、まるで秘密をばらすかのようにしゃべり始めるのだった。母の声は蚊の鳴くように小さかったので、私は母にぴったりくっついて聞かなければならなかった。母には私しかいなかった。母はとにかくいろんなことを話した。死を目前にした人は自分の人生を振り返りたがるものなのか。気になったけれど、知るすべもなかった。親を亡くした人に「あなたのご両親も亡くなる直前に、ご自分の人生についていろいろ話されましたか? そのことであなたは戸惑いましたか」などと訊くわけにもいかない。夫のスクラップブックの中にも、答えになるようなものはなかった。私は母が亡くなったあともしばらく、母から聞いた多くの話の中でふわふわ漂っていた。まるで手足を縛られたまま海の中に放り投げられたみたいに。
 母の葬儀に参列した父を見て、私は一瞬誰だかわからなかった。十歳のとき母と私を置いて家を出ていったきり、その後一度も会っていなかったからだ。父は悲しいというよりは、とてもうろたえているように見えた。その葬儀の日に、私は父と母が連絡を取り合っていたことを知り、少し失望した。父が出て行ったあと、母はありとあらゆる仕事をして私を養い、父からは養育費を一切受け取らなかった。なのにどうして失望したのかと訊かれたら、私は何と答えたらよいのだろう。父は私と話がしたいと言った。「おまえにどうしても話しておきたいことがある」。誓って、私は父を憎んでいなかった(それほどの関心すら見せたくなかったと言うべきか)。私が父を憎んでいると、父に誤解されるのも嫌だった(私が父に少しでも関心を持っていると思われるのが嫌だったと言うべきかも)。父と二人きりで話をするのはもっと嫌だった。あ、嫌だという言い方は誤解を招きやすいけれど、とにかく時間の無駄だった。私と父にはまだ話すことが残っているのだろうか。父は私に許しを乞いたいのかもしれない。母の死が父の心の中に波紋でも投じたのだとしたら。私は父を卑劣だと思った。
 驚いたことに、父はずいぶんと執拗だった。誰に電話番号を訊いたのか、葬儀のあと夏が終わる頃まで、週に一、二回は必ず電話をかけてきた。一度は善意を施すつもりで、言いたいことがあるなら気が済むまでどうぞ(「一泊二日かかってもいいわよ」と冗談を言おうと思ったけれど、うまくいかなかった)と受話器に向かって言ったところ、父はこう答えた。
「会って話したい」
 それを聞いた私は、父は頭がおかしいのではないかと思い、しばらく家にかかってくる電話を取らなかった。
 夏も終わりに近づいたある日、夕飯を食べているときに電話のベルが鳴った。しばらくして気まずそうな顔をして戻ってきた夫は、椅子に座ってからこう訊いた。声の調子を整えて、単刀直入に。
「君のお父さんは、もともと厚かましい人なのか?」
 私は首を横に振って答えた。
「さあ。よく覚えてないけど」

【続きは『小さな町』でお楽しみください】

四六、並製、224ページ
定価:本体1,800円+税
ISBN978-4-86385-592-2 C0097

【著者プロフィール】
ソン・ボミ(孫步侎/손보미)
1980年生まれ。2009年に21世紀文学新人賞を受賞、2011年に東亜日報の新春文藝に短編小説「毛布」が当選する。短編集に『彼らにリンディ・ホップを』『優雅な夜と猫たち』『愛の夢』、長編小説に『ディア・ラルフ・ローレン』『小さな町』『消えた森の子どもたち』などがある。若い作家賞、大山文学賞、李箱文学賞などを受賞。

【訳者プロフィール】
橋本智保(はしもと・ちほ)
1972年生まれ。東京外国語大学朝鮮語科を経て、ソウル大学国語国文学科修士課程修了。
訳書に、鄭智我チョンジア『歳月』(新幹社)、キム・ヨンス『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)、チョン・イヒョン『きみは知らない』(同)、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(同)、ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』(段々社)、クォン・ヨソン『レモン』(河出書房新社)『春の宵』(書肆侃侃房)、チェ・ウンミ『第九の波』(同)、ハン・ジョンウォン『詩と散策』(同)など多数。

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