必要なのは処罰ではなく教育

犯行要因を空間に求める「犯罪機会論」が防犯対策の主流になるまでhttps://www.newsweekjapan.jp/komiya/2022/03/post-2.php

記事タイトルに「空間」とあるが「環境」だろう。
もっと言えば、環境にあるのも「犯行の原因」ではなく「人を犯罪者に育てる原因」である。犯罪行為の原因は常に犯罪者自身に内在する。外界である環境その他に原因を見ることは論理的に間違っている。


>「犯罪が行われないように罰する」という従来の見方(功利主義的刑罰観)から、「当然の報い」(just deserts)として「犯罪が行われたから罰する」という単純な見方(応報主義的刑罰観)へと、刑罰の意味が変わった。

これが事実なら一種の退化・悪化・迷走化だ。犯罪の専門家ですら論理的思考力が欠けていては、犯罪の未然防止はできない。

>別の母親が被害者に謝罪したところ、被害者は、これは親ではなく子どもの責任であると応えた。少年は「すみません」を繰り返すだけだった。最終的には、オートバイを盗んだ少年には、再犯なので「警告」が与えられ、オートバイを乗り回した少年には、初犯なので「叱責」が与えられた。

必要なのは警告でも叱責でもましてや謝罪でもない。
強いて言えば、母親には「犯罪の原因」はないが「間違った子育てをした原因」があるのでその責任がある。だから謝るなら「子の行為に対して」ではなく「己の行為に対して」でなければ意味がない。

こうした加害者・被害者を交えた話し合いの場を設けることは、一定の効果はあるだろうからやらないよりはマシだ。だが、保護者や少年が「正しい子育て法」や「正しい自己実現法」を学ばないこの手法では不十分だ。
犯罪対策先進国として参考にすべきはイギリスではなく、デンマーク、オランダ、スウェーデン辺りの手法である。

低水準教育の犠牲者に必要なのは憎しみ(情報遮断・処罰・排除・放置)ではなく愛(情報共有・高水準教育・精神治療・救済)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?