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豆腐と芋の炊き合わせ

 小野といえば、小野芋子、小野豆腐、など食べ物の家系として有名ですが、変わり種として小野篁(たかむら)という人がいます。
 百人一首に出てくる人は、政権にかかわった人以外で親しみのある古代人ですが、小野篁もそのひとりで、
 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
を読んだ人です。

 小野照崎神社の由緒によると、小野篁は御祭神で、852年(仁寿2年)、篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在の地に遷されました。
 
 はるばる関東までなにしにきたのか調べてみると、この人、けっこうおもしろい経歴をもっていました。
 
 8歳のときに陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へいって、弓馬をみにつけた。帰京後も遊び惚けていたけどもともと才能があり、しっかり勉強して二十歳のころ国家公務員試験に合格。32歳の時、令義解の序文執筆。37歳のとき義憤?に駆られて遣唐使として渡海することをパス、さらに、落書きが見つかって島流しになってます。百人一首に選ばれた和歌はこのとき読まれたものです。2年後に赦免され、才能がみとめられ、40歳のとき貴族に復帰。46歳で公卿に。48歳の5月に病気により官職を辞す。仁寿2年(852年)51歳のとき一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、再発し、同年12月に薨去。
 
 これはwikiの情報ですが、関東には子供の時にしかいってないみたいだし、852年は病気でうごけそうにないのに、
852年(仁寿2年)、篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建され、というはなしはどうなのかなとおもうところです。
 
 国司って、このようにちゃんと任地に赴いている話もありますが、代官がいたというような話も聞きます。このあたりどうなってたんでしょうね。はるばる旅するのもたいへんそうですし、ちゃんと護衛の人がついて行ったりしたのかな。
 
小野篁経歴(wikiより)
 延暦21年(802年)生
弘仁6年(815年)(8歳)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、
弘仁13年(822年)(21歳)文章生試に及第した。
 
淳和朝初頭の天長元年(824年)(23歳)巡察弾正に任ぜられた。
天長7年(830年)(29歳)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌が酷く衰えてしまうほどであったという。
天長9年(832年)(31歳)従五位下・大宰少弐に叙任される。
天長10年(833年)に完成した『令義解』の編纂に参画して、その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。
承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。
 
承和5年(838年)(37歳)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま遣唐使の事業を風刺する漢詩『西道謡』を作る。忌むべき表現を興に任せて多用したものであったため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処した。
 
承和7年(840年)(39歳)赦免により帰京
承和8年(841年)(40歳)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任ぜられる。
承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、
承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、
承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。
承和14年(847年)(46歳)参議に任ぜられて公卿に列す。
嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。
仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。

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