上﨟

 女房言葉は、室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始めたことばで、おでん、のように、語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、しゃもじ、のように語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞など、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。
 女房言葉は、ネタの埋蔵量が豊富なので、おいおい掘削するのだけれども、その前に、女房にまつわることばをたどってみよう。

 女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する

 天皇に仕える「上の女房」は、朝廷の公的な女官である後宮十二司を含む。「上の女房」の筆頭は典侍で、掌侍もこれに次ぐ。中宮(正妃)に仕える女房は「宮の女房」と呼ばれ、宣旨を筆頭に、御匣殿・内侍などが存在した。私的な女房の長である宣旨は、中宮だけではなく東宮(皇太子)や斎院、場合によっては斎宮・上皇・摂政・関白などにも置かれた。
「宮の女房」のほとんどが、妃の実家から妃に付けられて後宮に入った人々で、清少納言や紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。

 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。

 女房の世界では、上﨟・中﨟・下﨟の区別があったが、その区別は実家の家格に影響され、上﨟は公卿の家の娘がなるのが例であり、稀に摂家出身の女房が存在した場合には大上﨟と呼ばれ、その他の上﨟である小上﨟とは区別された。これに対して中﨟は五位以上、下﨟は六位官人か社家出身の女性が就くこととされていた。

 﨟(ろう)とは、日本の宮廷において用いられた年功による序列のこと。元は律令制にもある労や仏教寺院の臘(ろう・﨟)に由来するとされていて、上﨟とは、年功を積んだ、官位の高い人・高僧のこと。

 臘(ろう・﨟)とは、仏教において僧侶が比丘としての具足戒を受けてからの年数を数える単位。一夏九旬の安居を終わった翌七月一六日をもって歳首とし、安居の回数によって法齢を算する。法歳。坐臈。夏臈(げろう)。戒臈。年臈ともかく

「臈」は中国で歳末に祭る神の名。また、その神を祭ること。

 臘とは本来、中国において冬至の後の第三の戌の日(臘日)に行なう、猟の獲物を先祖百神に供える祭り(臘祭)の意味であるが、 この臘が転じて、年の暮や旧暦一二月が臘月と呼ばれるようになった。新暦では冬至は一二月二二日頃だが、旧暦では一一月中にあたる。戌の日は一二日ごとにめぐってくるので、第三の戌の日は旧暦一二月の中旬から下旬となるのである。

 「臘」は「猟」に通じ、猟をして捕えた獣を祭壇に供えた。日本にはこの習慣は伝わらず、臘日(ろうにち、ろうじつ)は、日本の暦に登場する注記の一つで、選日の1つになっている。臘日の日は「丑月9日」「小寒後の2度目の辰日」「大寒に最も近い辰日」「大寒後の最初の戌日」など選日法はいくつかあるが、旧暦12月に来る。この日を年の暮れとして大祓を行うこともあり、そこから大晦日のことを臘日と呼ぶこともある。「臘」とは「繋ぎ合わせる」という意味で、新年と旧年の境目となる旧暦12月を「臘月」ともいう。
 年末のことを臘尾といったり、年が明けて前年となった一二月のことを旧臘といったりする。一二月八日に仏教寺院、とくに禅寺で行なわれる成道会は、「臘八会」ともいう。これは、釈尊が臘八(一二月八日)の暁に、大悟して成道したことにちなむ。

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