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城郭検定

城郭検定ってたいへんそう

城郭検定は、日本のお城のことについて、知識の広さ深さに応じて、5級から1級まで、6階級の試験が行われているらしい。

聞くところから推測すると、5級なんかは、だれでも聞いたことがあるようなお城のことについて、ちょっとした常識でわかるぐらいの問題がでてるんじゃないでしょうか。

級が上がっていくと、お城の構造や、歴史など結構細かいことが問われているようで、低級では、選択問題であるのに対して、1級クラスでは、筆記試験もあるようで、ちょっとした小論文をかかないといけないのかもしれません。

1つのお城のことについて深く知ることもたいへんだし、日本の城郭が時代とともにどのように変遷してきたかということを知るのもなかなかたいへんなことだと思うのです。

さらに、お城が無数にあるのが難点で、日本にどのくらいの山城があるのか知りませんが、例えば、兵庫県西部にある山城だけでも最低13城

県内ではその2-3倍さらに複数の県のことを考えると、数百城に上るでしょう。

また、関東八州諸城覚書(毛利家文書)豊臣秀吉が、小田原征伐の時に関東地方の戦国大名の勢力を調査したもので、

少なくとも50

主なものでも10以上あります。

これは、安土桃山時代の一時点での関東地方のお城で、鎌倉殿のときにも少なくとも13以上の居所があったでしょうから、関東のお城も無数にあるに違いありません。

いったい全国にそのくらいお城がありどのように分布しているかを調べようとして、意外なことがわかりました。

思ってるほどたいへんじゃないない面もある城郭検定

日本のお城の分布地図を探そうと検索していたら

こんなサイトがヒットしました。
全国にびっちりお城が分布しています。
しかし、拡大してみると、関東地方のお城は意外と少なく、関東八州諸城覚書のお城は網羅されていないようです。
兵庫県も全体で5つしかなく、西播磨の13の山城はひとつもふくまれていないようで、どうもこの地図は、いい加減なようです。
いったいこのいい加減なサイトは何なんだと思ってホームにいってみると、

日本100名城のサイトでした。主なお城の地図で、江戸城、松本城、名古屋城、大阪城、姫路城など、素人でも知っているお城が含まれていますが、100ともなると、根城、鉢形城、岩村城、山中城など聞いたこともないようなお城が含まれています。
さらに続日本100名城とありますが、こちらは、浜松城ぐらいしか聞いたことがありません。

しかし、お城検定の問題について、少し聞いたことがありますが、そこで出てきたお城は、この200城にふくまれているようで、もしかすると、お城検定って、日本に無数ある城からするとごく一部の200名城中心に問題がだされているのではないかとおもわれます。

とすると、無数ある山城のなかで対象になるのは高々数十、関東のお城は30ぐらいしかないので、そのうち、関東八州諸城覚書にかかれているものはいくつふくまれているのでしょうか。

ある年代、ある形式、なんかの分類をするとそこに含まれる城は、無数ではなく高々数十場合によっては、数城しかないかもしれません。

お城といえば、石垣と天守閣ですが、昔から残っているのはごくわずか、復元されたものはそこそこあります。名城に選ばれているのをみてみると、文化的な価値が重要なようで、古いものが残っていれば当然ですが、残っていなくても、お城の発展にとって重要であるとか、利用の過程に歴史的な意義があるなどが、評価されているようで、史跡や文化財として指定されているものが多いようです。

で、100名城を北から順に見てみると、いきなり、根室半島チャシ跡群、これは多分お城ではないのです。足利氏館 武田氏館 なんかは、鎌倉時代にルーツがあったりするんじゃないでしょうか。吉野ヶ里遺跡もいわゆるお城のイメージではありません。

根室半島チャシ跡群 五稜郭 松前城 弘前城 根城 盛岡城 多賀城
仙台城 久保田城 山形城 二本松城 会津若松城 白河小峰城
水戸城 足利氏館 箕輪城 金山城 鉢形城 川越城 佐倉城
江戸城 八王子城 小田原城 武田氏館 甲府城 松代城
上田城 小諸城 松本城 高遠城 新発田城 春日山城
高岡城 七尾城 金沢城 丸岡城 一乗谷城 岩村城 岐阜城
山中城 駿府城 掛川城 犬山城 名古屋城 岡崎城 長篠城
伊賀上野城 松阪城 小谷城 彦根城 安土城 観音寺城
二条城 大阪城 千早城 竹田城 篠山城 明石城 姫路城 赤穂城
高取城 和歌山城 鳥取城 松江城 月山富田城 津和野城 津山城
備中松山城 鬼ノ城 岡山城 福山城 郡山城 広島城 岩国城 萩城
徳島城 高松城 丸亀城 今治城 湯築城 松山城 大洲城 宇和島城
高知城 福岡城 大野城 名護屋城 吉野ヶ里遺跡 佐賀城 平戸城
島原城 熊本城 人吉城 大分府内城 岡城 飫肥城 鹿児島城
今帰仁城 中城城 首里城

次に続100名城あいかわらず舘がちらほらみられます。驚くのは、品川台場、これは、とりでという意味ではお城なんですかね。

志苔館 上ノ国勝山館 浪岡城 九戸城 白石城 脇本城 秋田城
鶴ヶ岡城 米沢城 三春城 向井羽黒山城 笠間城 土浦城 唐沢山城
名胡桃城 沼田城 岩櫃城 忍城 杉山城 菅谷館 本佐倉城 大多喜城
滝山城 品川台場 小机城 石垣山城 新府城 要害山城 龍岡城 高島城
村上城 高田城 鮫ケ尾城 富山城 増山城 鳥越城 福井城 越前大野城
佐柿国吉城 玄蕃尾城 郡上八幡城 苗木城 美濃金山城 大垣城 
興国寺城 諏訪原城 高天神城 浜松城 小牧山城 古宮城 吉田城
津城 多気北畠氏城館 田丸城 赤木城 鎌刃城 八幡山城 福知山城
芥川山城 飯盛城 岸和田城 出石城・有子山城 黒井城 洲本城 
大和郡山城 宇陀松山城 新宮城 若桜鬼ケ城 米子城 浜田城
備中高松城 三原城 新高山城 大内氏館・高嶺城 勝瑞城 一宮城
引田城 能島城 河後森城 岡豊城 小倉城 水城 久留米城
基肄城 唐津城 金田城 福江城 原城 鞠智城 八代城 中津城
角牟礼城 臼杵城 佐伯城 延岡城 佐土原城 志布志城 知覧城
座喜味城 勝連城

200が選ばれたわけですが、全国47都道府県、平均すれば4つづつとなりますが、最多は(兵庫県)の8、 最小は(岩手県)(栃木県)(京都府)(和歌山県)(高知県)は、2で、それぞれの100名城で0にならないように配慮されたのではないでしょうか。このことは、100名城は必ずしも、お城のランキングの上位100というわけでもないと思われます。

(北海道)5 (青森県)3 (岩手県)2(宮城県)3(秋田県)3
(山形県)3 (福島県)5 (茨城県)3 (栃木県)2(群馬県)5
(埼玉県)5 (千葉県)3 (東京都)4 (神奈川県) 3
(山梨県)4 (長野県)7 (新潟県)5 (富山県)3 (石川県)3
(福井県)6 (岐阜県)6 (静岡県)7 (愛知県)7 (三重県)6 (滋賀県)6 (京都府)2 (大阪府)5 (兵庫県)8 (奈良県)3
(和歌山県) 2 (鳥取県)3 (島根県)4 (岡山県)5 (広島県)5
(山口県)3 (徳島県)3(香川県)3(愛媛県)7(高知県)2(福岡県)6
(佐賀県)4(長崎県)5(熊本県)4(大分県)6(宮崎県)3
(鹿児島県) 3(沖縄県)5

いずれにしても、お城検定に出てくるお城は各県3つから5つていどしかないようです。

海城問題

どうやら、海城問題の選択肢に高松城、宇和島城、萩城、唐津城がよくでてくるようですが、200城の中で海城は意外とこの4つしかないのかもしれません。ちゃんとするには、本当にないかどうか確かめないといけませんが、10を超えることはないのでしょう。

それぞれのお城の情報を見てみると以下のようですが、要素としては、それぞれの特徴的な物語とともに、基本情報として、別名、城郭構造、天守構造、築城主、築城年代、改修者、城主、遺構などの情報が重要だと思われます。

唐津城は、佐賀県唐津市東城内にあった日本の城である。別名は、舞鶴城。
唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。
城郭構造 連郭式平山城(海城)
天守構造 不明
複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造模擬)
築城主 寺沢広高
築城年 1608年
主な城主 寺沢氏、土井氏、水野氏、小笠原氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀
 
高松城は、日本の香川県高松市玉藻町にあった日本の城である。別名・玉藻城(たまもじょう)。国の史跡に指定されている。
別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。
現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 独立式層塔型3重4階地下1階(1669年改・非現存)
築城主 生駒親正
築城年 1590年(天正18年)
主な改修者 松平頼重、松平頼常
主な城主 生駒氏、松平氏
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 櫓、門、渡櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓、旧東の丸艮櫓、披雲閣)、国の史跡
再建造物 御殿、桜御門
 
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった日本の城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年〈昭和12年〉指定)。別名は鶴島城。
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。
別名 鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主 藤堂高虎
築城年 慶長元年(1596年)
主な改修者 藤堂高虎、伊達宗利
主な城主 西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 現存天守・門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守) 国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
 
萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。
指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真で見ることができる。現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。
城郭構造 梯郭式平山城(指月山)
天守構造 複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主 毛利輝元
築城年 慶長9年(1604年)
主な城主 毛利氏
廃城年 明治7年(1874年)
遺構 長屋、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)国の史跡
再建造物 北の総門・土塀・土橋

平山城

平山城については

にくわしいが、4つの海城のうち、宇和島城、萩城、唐津城、は平山城に分類されている。平山城では山の上と下の城がいろんな形でつながれているが特殊な構造をもった「登り石垣」が、洲本城にみられる。

洲本城(すもとじょう)は、淡路国津名郡洲本(現在の兵庫県洲本市小路谷)にある日本の城跡。別名三熊城。国の史跡に指定されている。
1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。1581年(天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、城の大改修を行った。現在遺構として残る大部分が築かれた。この時、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。
江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。これは関ヶ原の戦い以降も、豊臣方大名の動きを牽制するために、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘と大坂湾一帯を防衛させるためとされる。
大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。 現在は曲輪、池、石段、石垣、櫓跡などが残る。天守台からの眺望「大浜を大観」と三熊山東側展望台からの「マリーナを展望」は洲本八景の1、2に選ばれている。
現在ある模擬天守は、1928年(昭和3年)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のもので、展望台に特化した建物である。
 
「由良引け」以降に築かれ、明治まで続いた「下の城」とは史跡としては全く別の時代のものと考えられ、「上の城」と分類されている。
上の城は1999年(平成11年)1月14日、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定されている。 下の城の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化史料館などがある。
上下の城を繋ぐことで防御力を高めた「登り石垣」という全国でも数例しかない珍しい遺構が良好な状態で保存されていることが評価され、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。
城郭構造 山城、平城
天守構造 連結式(1587年頃築・非現存)
(層塔型4重4階、鉄筋コンクリート模擬 )昭和3年
築城主 安宅治興
築城年 室町時代後期
主な改修者 脇坂氏(山城)
蜂須賀氏(平城)
主な城主 安宅氏、仙石氏、脇坂氏、
藤堂氏、池田氏、蜂須賀氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、天守台、堀
指定文化財 国史跡
再建造物 模擬天守

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