差別との有効な戦い方についての考察

以下の文章は私見であり、何の責任を持つつもりもありません。一個人の考察でしかありません。

  • 差別

  • ヒエラルキー

  • 安全領域と敵

  • ありとあらゆる敵愾心

  • 汝の敵を愛せ

「差別はいけない」と学校でならったけれど、いつまでたっても差別は消えないし、己の心に聞いてみても差別の原因となる感情なんて、いつでもどこでも簡単に生えてくる。

差別は通常個人が主体で行うものでなく、社会が行うものである。あるいは個人で差別ができると思っている人がいるとしたら、それはなんらかの権力者が主体である場合か、自分が社会的に影響力を持っていると思っている人か、差別というワード自身のミームの理解に乏しい人だろう。

差別という言葉にこだわるとすると、それは社会性と切っても切り離せない。影響力の大きい集団が、特定の比較的小さい集団に対して、行うのが差別である。逆は成立しない。つまり差別と被差別には”社会的な立場”=”ヒエラルキー”という概念が念頭に置かれることを踏まえる必要がある。

個人が行う差別行動とは、その社会的役割の中で行われる切り取られた行動であり、厳密な意味で言えば一個人が起こしうる差別行動とは、「差別に加担した行動」という方が正確だろう。しかしながら一個人の行う差別行動とは、特定の感情を元に行われる非協力的な行動であり、それらを総称して「差別行動」という言葉を持ちうるのは、実に自然でもある。

話がややこしくなったので、整理して考えると以下のようになる。
・一個人が持ちうる行動は侮蔑の感情を元にした非協力的な行動
・ある特定の性質に対する社会的な劣等レッテルが集団に広まる
・ある特定の性質を元に侮蔑の感情を抱き、非協力的な行動をした場合、差別行動とされる。

ポイントは個人の力では差別は成立しないというところにある。集団の中、社会の中において劣等という共通認識がない限り、それは一個人の妄想の域を出ない。(しかしいったん個人の枠をでて顕在化した差別はタチがわるい。)

仮にワタシが「ブロッコリーを食う人間は人間じゃない、劣等だ」と主張し、誰かを罵ったとする。(上記例は他に誰も賛同しそうにない主張であることが肝要である。)

誰もそれに賛同しないし、言われた当人もよっぽどのお人よしでない限りこう反発するだろう。「は?バカなの?バカにしてるの?」と。

話は以上で終わる。ワタシが誰かを無意味に劣等だと断じた。ただそれだけだ。

ただ、これに社会的な認識の変化が加わると話は変わってくる。「ブロッコリーを食う人間は人間じゃない、劣等だ」という共通認識が社会で広まれば、どうなるか。ブロッコリーを食う人間とブロッコリーを食わない人間というカテゴライズができ、言われた方はブロッコリーを食わない人間からの差別的な行動だと断じるだろう。

つまりそこに問題が生じる。

これは実に興味深い差異であり、個人が集団に変わった瞬間、社会の中で泳ぎ続けるしかない哺乳類のサガ、ヒエラルキーの問題であることがうかがえる。とても根深い。

人間は高度な社会性を持った哺乳類であり、彼らは同時に高度な抽象概念を扱うことに長けている。彼らは大規模な集団を形成し、連絡を取り合い、互いに”その集団に属している”という理由だけでかなり協力的になれる。

しかしながら裏を返せば”その集団に属していない”というだけで敵同士になれる、という諸刃の刃であり、人間が争いをやめない理由である。

知らない人に説明しておくと、人間はほぼ無意識にカテゴライズし、いろんなレッテル(SNSでいうところのタグ)を知っている人間全員に貼りまくる。もちろん御多分に漏れず自分にも貼る。そして共通のレッテル(タグ)を持っている人間を”仲間”と思い、逆に自分とは相反するタグを持つ人間を”仲間じゃない”と信じ込む。これは人間が進化の過程で得た”異常な”形質である。

原始の時代においていつ自分の命が他の生き物や他の人間によって奪われるかは大きな脅威であった。敵を敵として認識し、警戒することは生存戦略上必須であると言って過言でない。仲間が見つかれば、仲間と協力しあい、共通の敵に対峙することもできただろう。そうやって長い時間をかけて人間の認識は、共通項によって仲間を増やし、共通項をはみ出す敵を事前に察知して生き抜いてきた。

何が異常なのかピンとこないかもしれないので補足しておくと、共通のレッテル、とは遺伝的でも生物的である必要が無く、脳が理解できるなら”なんでもよい”ところにある。

この異常性の例としてよく挙げられるのはツチ族とフツ族の争いである。正直両者の民族性の違いは遺伝的な形質をかけ離れ、”分類の為の分類”と化しているのだが、当事者は真剣に「ツチ族かフツ族か」というカテゴライズに頭を悩ませ、争いに巻き込まれている。しかも後年の研究でそれら両者の民族の違いはそとからやってきた人間が、その土地を支配しやすくするために持ってきた作られた概念だった、というオチまである。そして最も恐ろしいのが、ツチ族とフツ族の当事者の中で起きた心理的な作用は、今も我々にも再現されうる、という事実である。

差別の恐ろしさはそのカテゴライズの馬鹿らしさに対して、極端に悲惨な結果がもたらされる可能性が十分にあることにある。同様の事例は看守と囚人のロールプレイ実験にも見て取れる。(映画『エス』で検索。)

上記二つの例は「あたえられたカテゴライズ」が発端の例であった。しかし多くのカテゴライズは自然発生的に起こるものと思われる。つまり、無意識的に行われるレッテル貼り、無意識的に人々をカテゴライズしタグを貼りまくる人間の性質、が発端となって、いつしか差別に発展していく形である。

主体を個人に戻そう。我々は無意識のレッテル貼りの中で、”いいタグ”と”わるいタグ”を使いわける。人間も社会的な哺乳類なので、自分や他の人をヒエラルキー、つまり階級の中に落とし込もうとする。自分の属するコミュニティーの中での自分や他のメンバーの立ち位置、的なものを容易に想像することができるだろう。人間だから当然である。もう、それは不可避である。階級概念の無い人間など存在しない。差別はなくしたい、けれど階級は絶対になくせない。人間は集団の中で自分や他者の行動を見て集団の中の位置づけを定めていくと同時に、先のタグによっても自分や他者の位置づけを決定していく。ありとあらゆるものがタグになりうる。代表的なものは地位、年収、人気、とか。例えば性別、例えば性の対象、とか。

特定のタグが”わるいタグ”として個人の中で解釈が進むと、その人の中で「あいつはわるいタグを持っているから劣等」という認識になる。あらためて強調しておくが、これは個人の偏見の、自由意志の決定することなので、ここを咎めるつもりは一切ない。問題となりうるのは「あいつはわるいタグを持っているから劣等”だよね”」というコミュニティーの中での共通認識の誕生、からである。一個人の偏見から、社会が差別を行う前兆としてこれが生まれる。個人的なレッテル貼りが集団の中で共通認識になった時、差別は生まれる。補足しておくと”いいタグ”が貼られる真逆も起こりうる。どういう言葉がしっくりくるかはわからないが崇拝、だろうか。あいにくポジティブな評価というものはネガティブな評価よりも弱いために崇拝(?)はなかなか起こりにくいように感じる。

レッテルは必ずしも”いい”と”わるい”に分けられるわけではない。しかし概念とは個人の中で生まれ、社会の中で育つものである。すなわち、ある程度そのタグが誕生してから時間がたてば、そのレッテルは”いい”か”わるい”かが、”常識化”する、ということである。(多いに皮肉を込めて”常識化”という表現をした。常識なんて常識ではない皮肉。それでも個人の納得感の中では極めて”常識”というほどに自然になじむその感覚。)


疲れたので続きはいつか書く、かもしれない。
明日かもしれないし、もう書かないかもしれない。

続きが気になる人は「続きが気になる」と表明してくれたら、書くかもしれない。

眠いので寝る。

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