歪んだレンズ、視点、死角。

どうも仕事柄、人と接する機会が多い。
人と人とが接する交差点、そこにはなにがしかのドラマが生まれる。
喜ばしいドラマも生まれれば、見たくはないドラマも生まれる。

人間が社会生活を営むようになったのは何万年前か?あるいは群れをなす動物として他人の動向を探りながら生きるようになったのは何万年前か?言葉を話すようになったのは何万年前か?

そんなことを知っていようが知っていまいが、いざこざは起こる。誤解は起こる。被害妄想や、思い込みによって事実を歪めて認識し、その歪んだ事実を元に行動を起こし、ひたすらに悲惨なドラマの結末が待っている。なんて人生はほろ苦くてクセになる味付けなんだろう。

歪んだレンズ
人間は一目見ただけで物事を正確に判断することができる。もちろん大嘘だ。新しく入った情報について、どんな賢者であろうと、先入観や思い込み、経験によって歪んだ情報を頭に刻み込む。むしろ経験によってその歪みは強烈になり、澄んだレンズなんぞこの世のどこにもありはしないのではないだろうかと思えるほどに、人は誤った判断で物事を判断し、情報を蓄積する。情報は必ず歪んで人々の心に沈着する。悲劇の序章だ。

視点
立場を超えて、あらゆる角度から平等に人々は物事を判断することができる。もちろん大嘘だ。社会的な立場、個人的な立ち位置、当事者と傍観者、色々な視点の違いがあり、そこに移る情報というのはかなり違ったものとなる。マジックショーを正面から観るのと、幕の横から見るのではまったく違った印象を受けるだろう。魔法にかけられた観衆はショーマンの神通力に喝采し、そのタネを知る者はショーマンの努力や技術に喝采する。視点の違いは決定的で、善悪が逆転し、魔法が技術に転換される。そうやって悲劇は加速する。

死角
すべての情報は与えられ、適切に情報を収集すれば、理論上いつでも適切な判断ができる。もちろん大嘘だ。宇宙は不確実性に満ち溢れ、意識の外から突然やってくる事件にいつも振り回される。上手く隠ぺいされた情報、だれも知ることのない天災、当人すら知りえない健康状態、いつも人生を狂わせる事件は斜め上を行く角度からもたらされる。どんなに注意深い人間であろうとも、全方位に注意を向け続けるのは無理である。悲劇はそこに開花する。

歪んだレンズ、視点、死角について、ある程度の大人なら、それらの存在とそれらの影響について少なからず知っているだろう。記憶と経験がそれらの存在を痛みをもって教えてくれる。しかしどうだろう?それを踏まえても自分の今の現状、今の世界、今の人間関係を正しく捉えていると思い込んでいる。絶対に正しいことなんて、自分が知ることはないということを知っているはずなのに、信じたいことを信じて、こうに違いないと思い込んで、そしてゆっくりと沼に沈んでゆく。大人になればなるほど、年を重ねるごとに世界は退屈に変貌する。知っている事ばかりだからだ。でも本当のところどうだろう。歪んだレンズは磨きをあげ、安定した地位は視点を固定化し、そもそも短い半生でとらえることのできなかった不確定要素はほぼ無限。にも拘わらず世界は退屈に思えてくる。認識は大嘘ばかりだ。でも自分は確固とした今の自分を今のこの生活で生きている。不思議な矛盾だ。幻を幻とうすうす気づいていながら、その幻を信じて、飽きて、世界を知ったつもりになっている。

どんな大人もいっさいがっさいバカである。こどもはそもそも無知である。人間は低能である。神はファンタジーである。でも救いは存在する。常に世界をアップデートし、止まらない覚悟をすることである。世界は全部嘘である可能性を否定しないことである。不安にならなくていいよ。何を信じるかは自分で決めていい。ただしその信念とともに心中する覚悟をもつか、すぐに新しい事実を認める覚悟をもつか。

人生は終わりのないTVシリーズと同じで、シーズン毎に色が違う。その色を決定するのは自分である。見たい世界を見れる、生きたい世界を生きれる。退屈な生き方を肯定するな。



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