自己認識、死、壮大な死

コメント:この文章は実験的な論述方式によって記述される大きな構造の一部である。単一の文章によって記述されるには複雑で、複数の文章によって記述するには、その関係性がまた複雑になる為、扱い易いと予想される方法によって記述される。

コメント:いくつかは明白な理論によって、また、いくつかは文化的に馴染みのある、という理由だけによって採用された記述法則である。経験則による一見不合理な法則は、物事を正確に説明するには不適切だと感じられるかもしれない。しかし、実際に人間は経験によってしか物事の詳細を知りえない、というトートロジーを考慮すれば、感覚的に優る、というだけの理由のルールも採用に値すると考える。

コメント:記述方式、および、実際に記述される内容については予告なく変更される可能性がある。

自己認識


自己認識の物理的境界は可変であり、経験によって決定される極めて柔軟な概念である。また、自己認識の心理的境界、ペルソナ、および、状態としての愛、の境界もまた、強く経験に依存することは自明である。


医学的な解釈に従えば、死とは個体の生命活動の無い状態を指す。現代的な解釈において個人の身体の死は絶対であり、生まれる前は虚無であり、死後もまた、虚無である。虚無と虚無に挟まれた極めて孤独な一生が別々に存在し、個人と集団は肉体によって切り離される。物理的にも、精神的にも切り離された一生が無数に存在し、不規則に欲望のままに世界を貪っている。
しかし、真に人間が認識している自己は己の身体だけでなく、物理的、心理的に拡張、場合により縮小、された自己であり、部分的な死、が一生の中で断続的に繰り返されている。つまり自己認識の観点から言えば、個体の生命活動の死がそのまま死であることと符合しない。これらの反応は人間の肥大化した抽象概念のもたらす幻想だと解釈することもできるが、果たして個体としての生命活動の停止がそのまま死を意味し、それ以外の解釈を受け付けない、という考えは、いったいいつから、誰が採用し、どれだけの合理性を持った解釈なのだろうか。生物種別、自分自身の経験的な解釈、中世以前の文化、地理的な差異、等を考慮すれば、むしろ、上記の死のとらえ方が、極めて限定的で、狭い範囲での説得力しか持たなかった、ということがわかるだろう。
なぜそのような限定的であるはずの死の解釈が、疑うべくもない信憑性のある事実だと誤認されるようになったのか。それは中世以降、魂という概念が否定されたからである。そして魂という概念装置が補填していた人間の自己認識の拡張性を説明しうる、代替の概念の装置の不在が、上記のような死の解釈を確固としたものとする、逆説的な証拠になっていた。しかし今や、自己認識の物理的、心理的柔軟性の存在が、魂というネームスペースを利用して実現されていた機能を代替するに十分な合理性を持っていると解釈することは容易だろう。また、魂という概念から自己認識の物理的心理的柔軟性という概念への移行は、魂という概念が付帯していたあらゆる文化的な雑音を取り除いた形での取り扱いを可能にする。
我々は生まれながらに誰かの自己認識に組み込まれ生まれ、誰かの自己認識の中で繰り返される断続的な生死の中の一つとして死ぬ。

壮大な死


クラスター状に広がる自己認識の網、という巨大な主体が存在し、おそらくそれは人類、という巨大な生命である。それは単一の思考法則を持つ主体ではなく、時間的にも空間的にも、自己認識を行う視点を大きく俯瞰する形で浮彫りになる存在である。その存在をどのように呼ぶのか、どのような性格を持つ主体として捉えるのか、そしてその主体の物理的な境界は最大範囲で人類に限定されるのか、は個々人の自由である。
個人的な身体上の死はいずれ短い期間に訪れるが、上記の壮大な存在の死は身体上の死よりはるか後に訪れる。その時の為に、あるいはその時が訪れるのをより永く引き伸ばす為に、何ができるのか。

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