分かれ道の無限性と横に長い私の故郷

夜道をランニングしているといくつもの分かれ道に出会います。今走っている比較的大きな道から細い路地が分岐しているところであったり、あるいは大きい道が二方向に分かれていくところであったり。
立ち止まるという選択をしない限りは、私はそのいずれかに進むことを強いられます。それは無数の進む可能性があった道の選択肢を捨てていくことでもあります。

話は飛んで私の生まれ故郷兵庫県神戸市、それもその南部の方というのは北側に六甲山脈が鎮座し、南側には瀬戸内海が広がるという中、限られた平地に人が所狭しと住んでいるという構造をしています。そんな街では大雑把な視点で見れば日常の大体の移動は東西方向に限られます。神戸の中心の三宮駅は確か世界でも17番目に多くの人が利用する巨大な駅、のはずですがそこから出ている鉄路の枝は東か西か、そのどちらかへ平行して伸びていくものがほとんどです。
“街の掟”を破って南北方向の移動を敢行しようものならば、神戸市南部の民は険しい坂に立ち向かうことを強いられます。
この立地条件はかなり神戸市民の選択肢を狭めていたように思います。ご近所の大都会大阪市に行けば、そこでは大阪平野の上に縦横無尽に交通機関が張り巡らされ、人々には360度あらゆる方向への移動が許されているような感じがします。東西方向だけの一次元的な街で育った私は、他の街が持つ二次元的な可能性に時折圧倒されるような感覚さえ覚えます。

このような故郷の特徴が私の中に、冒頭で述べたような分かれ道に対するよく言えば繊細な、悪く言えば臆病な感性を生んだ気がします。
こうしたことはより抽象的な人生の選択肢といった問題にも演繹されるような気がします。全ての方向に可能性があるとむしろ立ち尽くしてしまうような性質が、己の中にどうしようもないものとして存在している。

ただ私たちは生まれたときから、二択の問題には無自覚的にではあろうと無数に立ち向かってきました。このまま前を向いて進むのか、来た道を戻るのか、私の故郷を貫く国道2号線を歩むとき、実質的にはその二つしか選択肢は与えられてこなかったのです。

無数の可能性を削ぎ落として削ぎ落として、遂にやるかやらないかの二択に問題を落とし込んだとき、私の内なる故郷は真価を発揮するような気がします。



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