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分断と余裕について

分断

ということについて今年はよく考える。

「ベンサムの功利主義」というものがある。ひとりが不幸になって多数が幸福になるならそれでいいという考え方だ。コロナ禍においてはこの考えが表面化し散見されるようになっている。具体的には飲食店に対する風当たりにそれを感じる。演劇・音楽など芸術表現に対してもそうだ。「別になくなったって(わたしは)困らない。生活必需ではないから問題ない」というような言質である。
他者への想像力が欠ける状態は余裕がない時に生まれる。精神的余裕、身体的余裕、経済的余裕、いずれかのうち2つ以上が欠けると人はたちまち豹変する。カネがなくなるとココロかカラダに支障が出る。ココロかカラダに支障が出ると自然もう一方にも影響がある。その状態では経済活動は当然できない。するとまたいずれかに負荷がかかる。この悪循環が「分断」を生むと私は考えている。

共生や共存を考えた時、大小のコミュニティの中でカニバリズムが発生しないためには分け合う気持ちが大切になる。これは先の功利主義的な世界とは遠く、収穫の小さなものでも少しずつわけ合うと人は心も体も豊かになるというものだ。東京は競争が根本にあるのでこの感覚を養うことは難しいと感じるが、成長の哲学(競争)を優先するよりも継続の哲学(生存/共生と展開)を援用することによりそんなに難しいことはないのではないかと思う。

余裕がないから優しくなれない。ではなぜ余裕がないのか。自分の価値観がどこに優位性があるのか再考していくとゆとりを欠く原因は必ずある。
精神の余裕がないなら人に優しくしてみる。
身体の余裕がないなら、よく食べよく寝てよく動いてみる
経済の余裕がないなら、抱えこまずに人や行政に相談する(消費者金融はやめておこう)
余裕をつくる行動が結果的に豊かさを生み出して自分を満たしてくれることが多いのではないだろうか。

受動的な人はまず能動的になれるはじめの一歩を踏み出すことで変われるはず。批判や非難や攻撃をする前に、アクションを起こすことが大切だ。

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