日記(2021年9月23日)

本日9月23日は秋分の日、国民の休日であり彼岸の中日である。道端には群れながらもそれぞれがシャキッと、彼岸花が咲いているのが散見される。見た目の華やかさ、色の派手さと花としてのレア度の高い要素が揃っているのに、なぜか至る所に咲いているので、なんだか複雑な気持ちになってしまう。

私は各国民の休日はおろか、個人的な記念日(結婚記念日、個人の誕生日含む)すらも覚えられないので、朝のニュース番組で今日が休日であることを知った。家にはカレンダーが無いので、基本的に曜日感覚はゴミ出しの日か否かぐらいのものしかない。要するに、数字に対する興味がまあ薄いのだ。自身の誕生日すら、一拍考えないと出てこない…

今日は祖父が入院するとのことで、そのための買い物の付き添いを祖母から頼まれた。このコロナ禍で、半年ほど会えていなかった総父母は、半年前と比べびっくりするほど痩せており、年月の残酷さを思い知る。祖母が言うには、「次の入院からは帰ってこれないかもしれない」と。

幼い頃、よく旅行に連れてもらっていた。両親仲があまり良くなかったため、必然的におじいちゃん・おばあちゃん子になっていたのだ。車に乗って山、海、神社、温泉……。祖父の運転する車の後部座席によく乗っていた私は、自衛隊上がりのしっかりとした腕が、ハンドルを掴んでいたのをよく覚えている。隣で祖母がニコニコと笑っていることも。社内で祖母の作ったおにぎりと甘い卵焼きを食べる。自販機でお茶を買ってもらい、景色を見ながら飲む。もう、この思い出は、ただの思い出でしかなくなってしまった。

…祖父が、「おー。よー来たね。」と言ってくれた。少し前に脳卒中になったことが原因かは分からないが、発声が少し不明瞭に思えた。「おじいちゃんは、あんたが来るのを朝から”まだか、まだか”と待っとったとよ。」と祖母。

なんだかとても、悲しくなった。


人間が強いストレスを消化するに至るプロセスは、大きく分けて4段階あると言う。「衝撃」「反抗」「受容」、そして「適応」だ。
まずは「衝撃」。脳が目の前の事実を受け入れられず、頭が真っ白になったり、混乱したりする。事象についてずっと考え、時に不眠になる。
そして「反抗」。事象に対し怒りや理不尽さを感じ、「何故自分だけが」「元はと言えばあいつが」などと考える。
次に「受容」。事象のありのままを受け入れ、「まあ、そういうこともあるか」と認める。不安を感じながらも、物事に対し冷静な見方ができるようになる。
最後に「適応」。事象を受け入れた上で、どうすれば先に進めるのか、どの方法を取れば改善/再発防止に繋がるのかを考えることができる。

私は今、「衝撃」にいる。

もしよろしければご支援いただけると幸いです。このようなくだらない記事たちを生産しております。頂いたお気持ち(物理)は企画の実現等に活用させていただきます。