「「「「「イルカも泳ぐわい。」」」」」

 『千夜一夜』をご存知だろうか。俗にいう『アラビアンナイト』のことだが、このタイトルだと、どうしても西の世界からの余計な文脈を持ち込みかねないので、ここはひとつ、『千夜一夜』という呼び名にこだわりたい。ざっくりしたあらすじは、ある国の王さまが、とあるきっかけで女性不信に陥り、毎晩国の女性を招いては一夜を共にし、夜明け前に殺してしまうという行為を繰り返す。この残虐な習慣に対し、大臣の娘であるシェヘラザードは、この残虐な行為を止める術があるといい、王様の元へ乗り込む。シェヘラザードは、王様に、各地で聞いた面白い物語を語り聞かせ、夜明けが訪れると、キリの悪いところで物語を中断し、続きが聞きたいならまた明日、と、王様による殺害の行為を防ぐ。こうして数多くの面白い物語を、毎晩王様の元へ通っては聞かせ、中断することを繰り返すことで、延命を繰り返し、そうしていくうちに、王様の女性不信も回復し、最後にはシェヘラザードと王様が結婚してめでたしめでたし、という具合である。かの有名な、「アラジンと魔法のランプ」やら「シンドバッドの冒険」といった童話の数々は、このシェヘラザードが語ったいくつもの物語から、抜粋され、内容を児童文学向けに改編したものに過ぎない。
 数多くの童話の原作の役割を果たした『千夜一夜』だが、『千夜一夜』そのものの面白さで一番に挙げられるのは、やはりその入れ子構造にあると思う。入れ子構造とは、いわゆるマトリョーシカのような、モノの中にモノが入っていて、さらにその中になんやかんやのアレである。『千夜一夜』では、シェヘラザードが王様に語り聞かせる形で、数多くの説話が収録されているが、その説話の中の登場人物が、さらに他の登場人物に向かって、「こんな話を聞いたことがある」と語り始め、さらにその語りの中の人物が、「こんな話を…」という具合に、物語の内部が、とってもマトリョーシカの形になっている、という面白さがある。
 このマトリョーシカは、理論上はどこまでも数を増やせるように私には思う。例えば、今この文章をよんでいるあなたが、今『千夜一夜』の構造を知ったということであれば、それは、私が語った、シェヘラザードが語る物語についての文章を読んでいることになる。つまり、シェヘラザードの語りの上に、私の語りという鉤括弧が一つ増えた、『『千夜一夜』』ことになる。もしあなたが友人などに、「こないだnoteでこんな文章を読んだんだけど…」と、『千夜一夜』の物語構想について語れば、それを聞いた友人にとっては、『『『千夜一夜』』』になるだろう。私だって、『千夜一夜』の話は、大学の授業で教授が話していたのを聞いて知ったものだから、その時点で既に『『千夜一夜』』であり、その教授も恐らく誰かからその話を聞いただろうから、『千夜一夜』の両サイドには分からない数の透明な鉤括弧が何食わぬ顔で整列していることだろう。
 マトリョーシカだってそうである。私は入れ子構造を説明するのに、マトリョーシカという表現をしたが、(記憶にある限り)私はマトリョーシカの実物を見たことはない。「そんなものがある」とどっかで聞いたことがあるだけなので、そういう意味では、「マトリョーシカ」である。あるいは、「「「「マトリョーシカ」」」」かもしれない。n「・マトリョーシカ・n」(n:自然数)なんてナンセンスな表記をしてみてもいいかもしれない。
 世の中の物事には、見えない鉤括弧がたくさんついている。
 最近、加納愛子さんの、『イルカも泳ぐわい。』というエッセイ集を読んだ。発売された頃から、「イルカも泳ぐわい。何ていい響きなんだろう」と思いながら気になってはいたのだが、遂に取り寄せて読むことができた。この素敵な響き、「イルカも泳ぐわい。」は、てっきり、加納さんの言葉なのかと思っていたが、実際は昔の漫才師、「高僧・野々村」さんというコンビの漫才中のセリフらしい。

 二人は子どもの頃に流行った引っかけクイズをしている。

「あんまん・コーヒー・ライターって続けて言って」
「あんまんコーヒーライターあんまんコーヒーライター」
「ほら、やらしくなった」
「あー、じゃあ、今日・コーヒー・飲んだって続けて言って」
「今日コーヒー飲んだ今日コーヒー飲んだ」
「やー引っかかった!」
「何が?」
「飲んだん?」
「いや?」
「言ったやん今日コーヒー飲んだって」
「ちゃうやん! そんなもん普通やん」
「そうか」
「そらコーヒーも飲むわい、イルカも泳ぐわい。」

 私はこのイルカだけでご飯三杯はいける。ツッコミセリフであり、なおかつ確実にウケを狙いにいっている箇所ではないので、笑いが起こるかどうかという話ではない。なんの脈絡もなく発せられたこの言葉に、得もいわれぬ漫才の色気を感じたのだ。

加納愛子『イルカも泳ぐわい。』(筑摩書房、2020年)、7-8頁。

  「なんてことはない」という凡庸さを伝えるために、「イルカも泳ぐわい。」というツッコミを選んだことに、加納さんは、漫才の色気を感じたというが、その加納さんがエッセイのタイトルにそのまま引用した「イルカも泳ぐわい。」という響きのしっくりくるようなこないような感じに、私は不思議と惹き寄せられる。この文章を読んでいるあなたは、もしかしたら、この私が引用した「イルカも泳ぐわい。」というフレーズを見て、「なんかいいなあ」とか、「何言うてんねん」とかの感想を抱くかもしれない。一方でこのツッコミを発した「高僧・野々村」さんは、どこかで誰かが発した「イルカも泳ぐわい。」というフレーズを引用していたのかもしれないし、そうでなくとも、そのフレーズを生み出すのに、何かしらのインプットがあったのかもしれない。そのインプットしたものをアウトプットした人も、また…という具合に。
 世の中の言葉には、見えなくなった過去の人、これからその言葉を知るであろう未来の人、なんやかんやでその言葉を媒介してくれている見えない人による鉤括弧で溢れている。今この文章を読んでくれている方は、少なくとも、加納さん、高僧・野々村さん、そして私の三つの鉤括弧は、透明にならず実体を伴って浮かび上がっていることと思う。もし今後こんな記事のことなんて忘れて、「イルカも泳ぐわい。」というフレーズだけが、頭の中にこびりついたときは、まっさらな状態の「イルカも泳ぐわい。」が頭の中を占めることだと思う。しかしその時でも、その言葉には、無数の鉤括弧が寄り添っているのである。
 話は変わるが、今私が習っている料理学校の先生は、魚を捌く際、基本は腹と背の両方から、中骨に向かって刃をいれるのだが、何故か鯛だけは、表は腹から、裏は背から一方通行で刃を入れるように指導してくる。先生にこの理由を聞くと、
「俺がそう習ったからなあ」
と言い、理屈については、なんとなくこうなのでは?というアタリの部分しか教えてもらえない。もし将来私が誰かに鯛の捌き方を教えることになったときは、恐らく
「「俺がそう習ったからなあ」」
と答えると思う。あるいは、
「「「「「「「「俺がそう習ったからなあ」」」」」」」」
かもしれない。あるいは……これ以上は書く必要もなさそうだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?