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ほんとうの子ども ほんとうの教育学

30年近く、なんとなく横にちょこんと置き続けてきた関心ごとを立ち止まって整理していたら、あらためて学ぶ時間をつくりはじめていました。

『被抑圧者の教育』(1968)パウロさん著
『子供の誕生』(1960)フィリップさん著
この2冊には……
・大人と子どもの本来の学び(意識)
・文化的背景や時代の感情(情動)

これらを知るための基礎知識が詰まってた。

今までのぼくの学びの根っこにあるものは、経験や実践、痛い目にあったりいい思いをしたり、やさしくされたり唾を吐きかけられたりしながら自分の価値にすり込んできたものなんだけど、それを文学や芸術、自然や誰かや何かに触れながら補ってきた。きっとこれからも。そうしないと妄想ディストピアのようなよのなかで、存在自体がどっかにいっちゃう。

どっかにいっちゃうっていうのを、パウロさんが言葉にしてくれていたので代弁してもらいます。

「かっくんがそうやってひとりになって人々と共に考えようともせず、支配者をまねて人々について上から目線でただ考えるだけで、自らの思考を人々の内に投じたり伝えようとしないと、革命的指導者やその哲学や思想は消えていくしかないんだよ、わかってる?かっくん?

はい。あ、いやちょっと話が大きくなりそうだからこのへんで……

要するに「かっくんはかっくんのままでいいよ、隠居するからあとはみんなに任せるよ」とかいって自分の殻に閉じこもっているだけのダメな日常から脱皮をしなさい、と。パウロさんの言葉に、ハッとしてグッときてパッと目覚めた……ナニイッテンダ?

↑40年ちょっと前の昭和の子ども時代の集合写真、の図。

えっと、整理するとぼくがこういう時間を持ちはじめたってことは、そろそろアレがはじまったのかもしれないってことなんです。

アレとは?
息抜きや息継ぎ、生き返りや生き直し、脱皮や脱走(脱走て)の時間。つまり変化の周期、バイオリズムのその狭間にやってきた証拠。

役割のある生活周期(ちょっとした安住)
に入ると息継ぎをしなくなるのはいつものことで、その役割以外のことには目もくれなくなって、とことんそのことだけに没頭してるんですね。

息が止まったまま気が付かないでいると、ちょっとしたことで何かがパリンと弾けたりみしみし軋む音が聞こえるようになる。はたからみればいい感じの毎日でも息継ぎをしていないってことを忘れると……要するに、全体的に社会を見ておけよかっくんという話。

全体的に社会を見て、ときにはしっかり関われよかっくんという話。


まとめ!
世界は子どもで出来ているとはいうものの、じゃあ子どもって何?教育って本当は何?ってことを知らずにえらそーなことを言っていたくないなぁと思っていたところ、たまたま見つけた『被抑圧者の教育学』と『子供の誕生』。すぐに手にとって読んでみたら、なるほど、そもそもはそういうことだったんだと知って、ちょっとはえらそーなことを言ってもいいかな?と思ったという報告でした(本の内容は手にとって確かめてください)。

ということで、

この社会の中で…
誰かと何かを成そうとしている人
自分はどこに立ってるんだ?って思ってる人
そして子どもにすべてを任せたいって人にお薦めです。

てか、必読だよ。


↑『〈子供〉の誕生』のページ数、分厚いうえに2段組という。図書館延長4週間でも読みきれなかった。

++チラ内容++

『被抑圧者の教育学 50周年記念版』亜紀書房/パウロ・フレイレ
多くをあきらめた被抑圧者が増えれば増えるほど、抑圧者(国や独裁者)だけが笑顔のよのなか。出版された50数年前から変わらない構図になってない?と言うことを問いかける、ぼくら一人ひとりの革命の話。

↑20年ちょっと前に出会ったパウロ・フレイレ。当時の対訳に馴染めなくて読みきれなかった。そして先日たまたま観る機会に恵まれたチェ・ゲバラの3本の映画。〈本当の教育学〉は一人ひとりに革命が起こることなんだと知った。

『〈子供〉の誕生 アンシャン•レジーム期の子供と家庭生活』みすず書房/フィリップ・アリエス
中世・ルネサンスの頃まで、子供という概念はなかった、という〈小さな大人〉の発見。子供って?その暮らしは?家庭や社会の中で子供が子どもになっていく時代背景を、現代まで残っている文献や絵画を通して解き明かす(なんか帯のコメントみたいになった)。

↑子どもや教育の専門家ではないぼくは、この数十年何かしらの形で子どもや教育の現場に関わってきた。そしてどこかで聞いた話の元ネタをこの本に見つけた。又聞きで満足しちゃダメだからね。