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自分の中の「子ども」の話


私の中にある「子ども」に対する考えの話


私は性別が女性で、
小さな頃から「大人になったら結婚して子どもを産む」が
当たり前だと思って生きてきた。

でも、最近は違う。

大人になってみて、子どもを産むことが怖くなった。

私がこんな気持ちを抱くのは、
人間って生き物は(大人になると沢山の事を知る)からだと思う。

色々なことを知った。
調べた。
考えた。

分からない。

調べた。
考えた。

全然分からない。

自分の気持ちも、考えも、
未来のパートナーの考え方への理想も、
何も分からない。


全部間違っているようにしか見えないのだ。


そんな私が出逢った、
「反出生主義」という考え方。

(正確には、自分の中の考えに名前を見つけることができた、という感触。)

おおかた、私の意見はこの考えだ。

生まれないこと、これ以上の救済は無い、と。

なんて非の打ち所のない考えなのだろう、と。
(実際には反出生主義にも穴がありますが。)

そして、反出生主義を考えた私にはもうひとつ、
他人には決して安易に話せない考えがある。

優生思想だ。

※優生思想という言葉を詳しく分かっていない。
まだ調査や研究が不十分である。
だから、間違った表現になっているかもしれない。

私は、障碍者差別をすることに対して、
意識的に賛成・支持したことがない。

もちろんこれからも、そのつもりだ。

しかし、差別は私の内側にきっと生きている。
日本社会にはまだまだ障碍者差別が蔓延っていて、
その日本で生まれ育った私は、それを見てきた。

そんな私が1ミリも差別に針が振れていないなんて、
その方が不自然だと思う。

だからこそ、私は私を、絶対に差別しない人間だとは言えない。

意識的に、行わない。

それだけしか断言できない。

しかし、自分の子どもとなると話は別。


私がこの先、子どもが欲しいと思うことがあり、
実際に妊娠することができたのなら、
ほぼ確実に出生前診断を受けるだろう。

私は自分の子どもが障碍者でありながら、
その子を幸せにしてあげられる自信が無い。

きっと健康な子だったとしても、
自信が無いのだけれど。

でも、少しでも不安要素は無くしたい。

生まれてくる子どもが、
障碍を「苦」だと思わない保証はどこにあるのか。

愛しい人を苦しませる可能性なんてゼロにしてしまいたい。

親の立場になる人が、
「せっかく私たちの元へ来てくれた子を殺すなんて」
と言っているのを聞いたことがあるが、
来てくれたとはどういうことか。

来てくれたのではない、
あなたたちが受精卵を作ったのだ。

脳も発達していないような、母のお腹の中にいる段階で、
子どもに意思があるような考えは理解できない。

子どもに意思は無い。
間違いなく無い。

作るのも産むのも産まないのも、
全て親がすることだ。


もうだめた、これ以上書けない。
眠る。

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