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10年10万kmストーリー 第61回 TVR タスカン スピード6(2003年型) 18年1万6000km

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 たった3年半だったけれども、TVRグリフィス500と濃密な時を過ごしていたことがあったので、まさか同じTVRのそれも後継車的なタスカン スピード6に乗っている人を、「10年10万kmストーリー」で取材できるとは思っていなかった。
 なぜ想定していなかったのかというと、グリフィスも刺激的だったけれども、タスカン スピード6はもっと刺激的だからだ。他のどんなスポーツカーに似ていないこともあって、TVRに魅せられ、手に入れた人は夢中になる。夢中になって走りまくるのだけれども、TVRは慣れても刺激が弱まるということがない。しまいに刺激に疲れて乗らなくなったり、刺激に麻痺してしまう人も少なくないから、10年もしくは10万km以上乗り続けている人など皆無だろうと思っていたのだ。
 以前の連載で、グリフィスのオーナーが登場してくれているが、彼は特別中の特別でグリフィスを2台持って南九州まで帰省したり、その後、もっと古いヴィクセンまで手に入れている。

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 僕も、タスカン スピード6には今でも特別な想いを抱いている。
 タスカン スピード6に初めて乗ったのは、1999年。イギリス・ブラックプールにあるTVRの本拠地を取材した時のことだ。鳴り物入りで発表されたばかりのタスカン スピード6を存分に試乗して構わないと、本社の前から送り出された。
 想像していた通りに素晴らしかった。あらゆるところがグリフィス500よりも研ぎ澄まされていた。特に、TVRとしては初めてとなる自社製の新開発3.0リッター直列6気筒エンジンのパワーとレスポンス、音などすべてに魅了された。
 ただ、あまりにも鋭すぎるスロットルレスポンスには難儀した。履いていた靴の革ソールがアルミ製のアクセルペダルで滑って、フレームに伝わる振動がそのままアクセルペダルを細かく前後させ、それがエンジンの回転数を上下させ、まるで咳き込むようにボディまでも振動させた。
 同じアルミ製のブレーキペダルやクラッチペダルなどには滑り止めに水平方向に溝が切られていたのだが、アクセルペダルには垂直方向にしか切られておらず、革ソールと相まって滑ってしまっていた。自分自身で右足を微細にコントロール必要があった。レーシングカーならいざ知らず、それまでどんなスポーツカーでも、そんなにデリケートなアクセルワークを要求されたことがなかった。

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 試乗から戻り、その感想を当時のオーナーのピーター・ウィラーから直々に訊ねられ、報告した。
「スロットルレスポンスは調整できるのですが、乗ってもらった試乗車は最も過敏な特性に設定してありました」
 グリフィス以前の何台かのTVRはローバー製の4.0リッターもしくは5.0リッターのV8を搭載しており、スポーティにチューンしてあるとはいえ、基本設計の古い、元はアメリカ車用で、その前はボート用というエンジンだったのでトルクこそ太かったものの、レスポンスや高回転は最初から望めなかった。だから、予想していたとはいえブラックプールで乗ったタスカン スピード6の超辛口ぶりに驚かされたのだ。
 ウィラーは、僕が日本からの取材記者であることを思い出したように付け加えた。
「エンジンのコントロールユニットを開発したのは、チャンピオンシップを獲得したトヨタのWRC(世界ラリー選手権)マシンの開発チームにいた男です」
 招き入れてくれた、それほど大きくはない応接室でウィラーは上機嫌だった。エンジンをはじめ、すべてを自社開発したタスカン スピード6をリリースすることができて、それまでバックヤードビルダーとひとくくりにされていたイギリスの小規模スポーツカーメーカーの中から、ひとり抜け出ることができたからだ。
「年間生産台数4000台を計画している」
 鼻息も荒かった。それが大風呂敷を広げているように聞こえなかったのは、タスカン スピード6の完成度の高さだけでなく、ウィラーの熱意と誠意がインタビュー中に伝わってきたからだった。
「最初、私は一人のTVRオーナーで、整備や修理の必要がある時には、ここまでクルマを持ってきていた。だから、従業員は顔なじみばかりだったし、工場の様子もよく知っていました」
 ウィラーは化学関連の会社を経営していて、軌道に乗ったところですべてを売却したのが40歳代前半のことだった。TVRの2代目社長だったマーティン・リリーは北米マーケットに進出したが上手く運ばず、かえってそれが経営の足を引っ張ることになった。
「早く引退できたので、妻子とノンビリ暮らそうかと思っていました。スポーツカーは好きで、TVRだけではなく、ジャガーもアストンマーティンもロータスも、いろいろ乗ってきました。ある時、いつものようにここにやって来ると、従業員からTVRの経営状況が思わしくないことを知らされ、“引退しているのだったら、代わりにあなたが社長になって経営を立て直してくれないか”と頼まれたのです」
 そうして3代目のTVR社長となったピーター・ウィラーは、いくつかの改革を行った後に、明確な経営ビジョンを抱くようになっていった。それが前述の“バックヤードビルダーからの脱却”を図り、TVRを現代的なスポーツカーメーカーに生まれ変わらせることだった。
「そのために、エンジンをはじめとするすべてのパーツを自社で生産し、品質を向上させることが必要だと考えました。ポルシェやフェラーリが、他メーカーのエンジンを使っていますか? 違いますよね」
 その通りに完成したのが、タスカン スピード6だったというわけだ。熱心なユーザーだったが、傾きかけたTVRから請われて社長を引き受け、見事に再生した。経営者として一流であるというだけでなく、言葉の端々からスポーツカー愛好家としての深い洞察も伺えた。
 都心の待ち合わせ場所に、黄色いタスカン スピード6はルーフを外して駐まっていた。

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