4/11 スタンディング

くそほどムカついていて どうしたらいいのか分からなくて 居ても立っても居られない それで昨晩、4月11日、行幸通りに行った。
声をあげなくてもいい 集まりましょう! というツイートをみてもなおどこか躊躇う気持ちが直前まであったけど、いつも乗って帰る電車から丸ノ内線に乗り換えるため途中下車したときはもう速足だった。
東京駅の地下から、大きな駅舎と対面する向きで地上に出ると、声がして、拍手が聞こえて、すぐに分かった。スピーチをする人と、冷たい石の地面に座る人々、囲んで立っている人々。生花のあおい匂いが漂う。

少年アヤさんのスピーチが代読されることを、この日の昼、少年アヤさんのツイートで知っていた。私が着いたときにスピーチをしていた方の次に登壇された方がアヤさんの言葉を読んだ。
アヤさんの言葉は、彼が今、大好きな彼氏との楽しい暮らしを築いていること、それでも、2人だけの世界から一歩外に出ると、そんな楽しい世界は、愛のある暮らしは、2人の住処は、存在してないみたいだという語りから始まった。随分ほっこりした調子で始まるので一瞬話の行く先を見失いかけたんだけど、いや私たちが守ろうとしてるのは、まさにそのほっこりなんだよね。愛のある暮らしなんだよね。でもそれが叶わないから、個人が虐げられ、沈黙を強要され、無いものにされようとしているから、こうして、そうはいかないぞと言わなきゃいけない。
私たちはみんな人間で、ここにいる。感情がある。確かに、ここに生きている。みんなが各々の全力で、自分の好きに、当然に、自然に、愛を持って生きたいだけなんだよ。それをどうしてか法律が守ってくれないんだよ。

この日もそんな話がいくつもあったと思うけど、日本で育って、女で、性暴力にまったくあったことが無い人って、まじでいないと思う。(女だけが性暴力にあうということでなくて。性暴力加害に優しい、異常な空気の中に浸からされてるという時点で全員が常に危機にさらされている)セクハラってちゃんと暴力なんだよって分かってない人が多すぎだし(セクハラ、に限らず○○ハラ、ってなんかポップなものみたいに扱いがちだろ)、性暴力に限定せず、とにかく暴力を受けた人、被害にあった人が、その後どれだけの闘いを強いられることになるのか、どれだけ長いこと苦しまなくちゃならなくなるのか、諦め、沈黙、理不尽への適合を余儀なくされるのか、なんでこのご時世において、それも人を裁く職業の人間が、わからずにいるんだよ。
怖いことや理解できないことの前で体が動かないこと、頭が働かないこと、声が出ないこと、心が壊れること、自分を責めてしまうこと、弱い立場にいる人が声をあげることの難しさ、声をあげても聞き届けられることの難しさ… それくらい共通の知識として、容易く想像できることとしてあるものと思っていた。ていうか大昔から言われてることじゃん。人間の仕組みについて、何十年も前からずーっと言われてるようなことを無視して、なんで裁判なんてできるの?というところが最もムカついてるところかも。どういう慢心なのまじで。差別やPTSDや虐待についての”歴史”として読んだことあるけど?みたいな話で溢れてるんだ未だ

痴漢も、やばいナンパも、コンビニのエロ本も、コンテンツとしてみていたことがあった。あんまり多いので、普通のこと、そういうもん、笑いの種みたいに話をしてたことが、あった。絶対おかしいよね?十代の私が意識しない、おかしいってことに気づかないままに刷り込まれているの。初めからそこにいるからその異常さに気づけない。辛い思いをしている人が確かにいるのに。その異常性が連鎖していくのに。おもしろコンテンツみたいに茶化して、苦しんでいる人を馬鹿にして、ありふれてる、そういうもんだって。

デモって、すごい冷笑されるでしょう。なんかまたやってるよって。そういう目があるのすごく分かるし、なんで私がわざわざそこに行くの?行ったとこでなんなの?っていうのも分かる、そう言う自分がいるから行くのを躊躇う気持ちがあったので。デモというものに参加するの私はこれが初めてです。これまではデモの開催を知って関心があっても、その訴えるところに心をつかまれても、実際に行ったことはなかった。このままじゃやばいのに、って思ってるんだけど、冷ややかな目(自分が自分に向けるそれも含め)が怖くて参加しない。で、何も言わず、沈黙して、触れずに終わり。
ただ今回、最近、めっっっちゃくちゃムカついてて。酷すぎる判決に。彼女たちが絶望を抱えさせられることに。めちゃくちゃムカついてるけどこれをいったいどうしたらいいのか全然分かんないことに。こんなやばい社会に生きてんのかよと。どうしたらいいのか分かんないけど、どうにかしようとしてる人たちの企画に参加するのは良いんじゃないか?ていうかそれしか今んとこできることがない!
話題になってる問題についてなんでも発言しなきゃ参加しなきゃとかは全く思わない。スルーする勝手。もんもんとグレーゾーンを漂う勝手。そんな場合じゃないのよ私はという勝手。しかしだ、こんなに憤ること、自分の中で答えがはっきりしてることについては、スルーしちゃ駄目だ!となった…

私が着いたときはもう19時45分くらいだったからすぐに解散かもしれない、それでもいいやと思っていたのが、スピーチをする人は続き、21時頃まで私たちはそこにいた。そりゃあ冷えるよね。寒かったね。でも本当に行ってよかった。このような活動を実現させる人たちがいて、その場に私と同じようにとにかく駆けつけたいと思って来た人たちがいて。愛を渡しあえたと思ってます。その場で友達にも遇えたし、インスタのストーリーにあげたら今度は自分もと反応してくれた人もいた。
仕事終わりで手ぶらで行って立ってただけなんだけど、多分、その場に行って人の言葉に、思いに、触れられたことが私にとっては小さな成功体験になった。という意味でも大切な時間だったように感じてる。そして、私は当事者だという思いを強くした。それは私が私自身の体験によって差別や暴力の話ができるからということより、ただ、この社会の一員だからということです。これからも多分住み続けようとしてる社会がこのまま平然としてるのはいやだ。立ってただけなんだけどね!? しかし自分が1人の人間としてでなく、記号的な「女」として存在していたあの時やあの時やあの時のこと、冷静に供養していけるような気がする。それは私個人のすごく大きな前進で、目覚めな気がする。自分個人を人間として大切にすることができたら、そういう個人が集まって社会を作るのだから、意味、ある。超ある。


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