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雑賀崎探訪記~ある町、ある出会い、ある思い~

3回目は雨

 2022年10月7日、金曜日。10時20分。遠出をするとき、決まって予定通りにいかないのはなぜだろうか。前日からあれやこれやと、準備をしたはずなのに、当日うまくいかない。予定では朝8時過ぎに起きて、9時ぐらいには家を出るつもりだった。というのも、今日は大事な約束をしている。相手は、和歌山県にいらっしゃる。その方とは午後、会うことになっていたので、今から向かっても遅れることはない。しかし、私は約束の前に付近を散策したかった。9時15分の目覚めと同時に、予定が狂うことが決まり、気分はブルー。しかも、あいにくの雨だ。嫌なことは、たいてい立て続けに起こると、耳にしたことがあるが、なぜよりによって今日なのか。昨日までは綺麗に晴れていたではないか。濡れたアスファルトに怒りをぶつける。計画が乱れると心まで乱れてしまう。身だしなみだけはきちんと整えて、車を走らせた。雨の日の運転は気を遣う。慎重にハンドルを握りながら、和歌山県和歌山市の雑賀崎へと向かった。雑賀崎と書いて、「さいかざき」と読む。行くのは今回で3回目になる。それほど私にとって、雑賀崎は愛着のある町だ。

ある町との出会い

 10時40分。天候による影響なのか、いつもはスムーズに通れる道が渋滞している。車内に流れるカーラジオに耳を傾けながら、雑賀崎との出会いや思い出を振り返っていた。出会いは3月、YouTubeである動画を見たことがきっかけだった。当時私は春休み真っ只中で、アルバイト漬けの日々を送っていた。回転寿司での接客業務は、ストレスが溜まる。理不尽な客や思うように動いてくれない後輩従業員に、モヤモヤを募らせていた。大学生活も折り返し地点を迎えていたが、新型コロナウイルスの感染拡大もあり、思い描いていた理想とは違っていた。積もり積もった負の感情が、毎日の暮らしから逃げ出したいと私に思わせていたのだ。
 現実逃避できる場所はないかと、旅やツーリングに最適なスポットを紹介する動画を漁っていた。そこで見つけたのが、和歌山県雑賀崎の映像だった。雑賀崎は、町の集落がイタリアの世界遺産「アマルフィ海岸」の景観に似ていることから、「日本のアマルフィ」とも呼ばれている。知る人ぞ知る観光地なのだが、恥ずかしながら無知の私は、そのとき初めて雑賀崎のことを知った。映像からも、山の斜面に規則正しく家が建ち並ぶ風景は、十分美しく感じられた。「その景色を実際に見てみたい!」幻想的な情景が映し出されたスマホの画面を目に焼き付け、私はすぐに動き出した。
 初めて雑賀崎に行ったときも天気は良くなかった。自分自身の心を映したような、どんよりとした曇り空。ただそこで待ち受けていた光景を目にした瞬間、私の心は晴れやかになった。町並みもさることながら、雑賀崎の山の上にあるカフェから見た広大な太平洋が、とてつもなく麗しかった。オーシャンビューのカウンター席に腰を掛けると、分厚い雲のわずかな隙間から日の光が差し込んできた。その光はずっと抱えてきた憂鬱を晴らすかのようで、しばらくの間、そこから立ち上がることができなかった。
 カフェにはテラス席も併設されている。外に出ると、心地よい海風に当たりながら、絶景を体で感じられ、同じ景色でも店内から見るのとはまた違う趣があった。目の前に広がる情緒的なパノラマを、ホットカフェオレとともに味わったあの感覚が、今でも鮮明に記憶されている。私は雑賀崎という町と、ふと立ち寄ったカフェ「スハネフ14-1」の虜になった。
 11時10分。依然として、ワイパーが一定の速さで動いている。どうやら午後も雨脚はこの調子らしい。車が思うように進まない状況に、痺れを切らした私は高速道路を利用することにした。2回目に雑賀崎へ行った時は道中も退屈しなかった。感動的な思いを誰かと共有したくなり、1人の女性を連れて向かったからだ。彼女は恋人ではないが、とりあえず私が抱いた気持ちを分かち合ってくれそうだった。車中では程よく会話も弾み、雑賀崎までの道のりもあっという間に感じた。2人でまず雑賀崎灯台に向かい、じっと海を見つめていた。何を話すわけでもなく、ただぼうっと。隣の彼女をちらっと伺うと、眼前の広くて青い海に心酔しているようだった。そう、その感覚だ。心の中で共感した。そしてまたあのカフェにも寄った。私と彼女はスハネフ特製ドリンクを注文し、やはり特別何か言葉を交わすことはなく、お互いが頼んだ飲み物を片手に、風光明媚な眺めにうっとりしていた。誰が見ても同じようになるのだろう。その美観に心が奪われている彼女を一人テラス席に置いて、私は初めてスハネフのママに話しかけた。「毎日この景色を見られるなんて最高ですね」。するとママは何やら嬉しそうに「そうでしょ」と答えた。続けて私が雑賀崎に魅せられていることを伝えると、ママはまた嬉しそうに話を聞いてくれた。それから会話は雑賀崎で持ちきり。「雑賀崎の一番の売りは人」というママの言葉が印象に残った。最後は連絡先を交換するまで親しくなった。
 ママの名は竹原朝子さん。実は今日の大事な約束の相手が、その竹原さんだ。竹原さんとは、雑賀崎について、またいろいろなことを教えてもらう約束をした。高速道路に乗れば渋滞もなく、賢い選択をしたと自分を肯定できた。目的地が近づくにつれて、胸が躍った。

味わう孤独

 12時25分。結局到着までには2時間ほどかかった。さすがに疲れがあったが、シトシト雨の降る雑賀崎も新鮮で良かった。過去に2回来ているとはいえ、まだ灯台とカフェ「スハネフ14-1」にしか行ったことがない。だから今回は、新たな雑賀崎の一面を発見したいと意気込んでいた。約束までのあいだ、私は雑賀崎の町をゆったり歩いてみることにした。あわよくば、地元の方と何か話ができたらいいなと考えていたが、あいにくの天気で一人も歩いていない。雑賀崎の一番の売りであるはずの人が、見当たらないのだ。正体不明の鳥だけが、群れを作って、淀んだ空を楽しそうに旋回している。思わず鳥に、誰か人を見なかったかと尋ねそうになった。当然答えてくれるわけもなく、私はゆっくりと足を進めた。何隻も船が停まったままになっている。悪天候の影響か、漁には出ていないようだった。
 港近辺を歩いていると、「漁協の共済」と大きく標された、ある看板が目に入った。その建物は、雑賀崎の漁業協同組合だった。ようやく人と会える。年季の入った事務所の扉を恐る恐る開けると、中から人の声が聞こえた。確実に人がいることは分かったが、この日、まだ母としか言葉を交わしていない私は、話しかけるにも何と声をかけようか困惑した。まずは挨拶をと思い、か細い声で「こんにちは」と言ってみた。これが、自宅を出たときの「行ってきます」以来、数時間ぶりの発声である。久しぶりに何かを口にしたためか、自分でもはっきりものが言えたかよく覚えていない。受付に座っていた中年男性が、こちらに軽く会釈してくれたのが見えた。
 人見知りを前面に出しながら、「ここは漁協ですか」と聞いてみた。するとすぐに「そうです」と素っ気なく返事があった。強面の男性は「こいつはどこの誰だ」という目をしているように見えた。怯まずに会話を続ける。「このあたりは何が捕れるんですか」。「今の時期は鱧が捕れる。もうすぐアシアカエビも解禁になる」。「そうなんですね」。「県外の人も結構来られますか」。「来ますね」。「へぇー」。あっという間に会話が終わった。これでも頑張ったほうである。
 男性との会話を諦め、中にあった漁協の掲示板やパンフレットを見学することにした。そこには、地元の小学生が書いた、漁師への感謝の手紙など、心温まるものもあった。雑賀崎の小学生に少し励ましを受けながら、後ろからはずっと痛い視線を感じていた。事務所には受付の中年男性だけでなく、男女数名がデスクワークをしていた。私に聞こえるか聞こえないかぐらいの、声のボリュームで何かを話している。気になって、耳を傾けた。「あいついつまでおるん」。茶髪男性が同僚の女性にこう言った。彼らは私が聞こえていないと思っているのかもしれないが、私にははっきりとその言葉が聞き取れた。もうここにはいられない。「雑賀崎の一番の売りは人」。竹原さんの声が頭の片隅から聞こえる。私は何事もなかったかのように漁協を後にした。早くも帰りたくなっていた。涙は出ないが、もう心はズタボロだった。
 12時45分。いくら落ち込んでいても、帰るという選択肢はなかった。私から竹原さんにわがままを言って快諾をもらった約束を、破るわけにはいかない。約束の時間は14時。人気のない集落を寂しく歩いた。雑賀崎は山の斜面に家が密集して建ち並んでいるため、坂や階段が多く、道も人とすれ違うのがやっとの狭さだった。細い路地を進み、何段か上がると、そこには開けた神社があった。衣美須神社というらしい。私は神にもすがる思いで、これから良いことがありますようにとお祈りした。

新たなご縁

 13時10分。参拝を終えて、登ってきた階段を下る。すると、先ほどの路地から、腕に白い袋をぶら下げた、地元のおばあさんがトボトボと歩いてきた。身軽な装いから、おそらくこの辺りにお住まいの方だろうと推測できた。私にとって、おばあさんがこの日屋外で初めて遭遇した、雑賀崎の住民第1号である。コミュニケーションの基本は挨拶から。漁協での出来事は一旦忘れて、「こんにちは」と話しかけてみた。おばあさんは足を止め、少し驚いた様子で、「こんにちは」と返してくれた。「学生さん?」。続けて聞き返されたことに、今度は私が少し驚き、「そうです。大学生です。」と答える。ごく自然な流れで、おばあさんとの会話が始まった。
 「今この辺をブラブラしながら、雑賀崎について取材させてもらってまして」。「あら、そう。おたくみたいな若い学生さんを最近よく見かけるわ」。おばあさんは気さくに、話をしてくれる。「どこから来たの」。「大阪です」。「大阪ですか、それは遠くから」。初対面だったが、おばあさんとのテンポの良い言葉のキャッチボールが、とても心地よかった。「この辺りに住まれてるんですか」。「家はすぐ近くでね。せっかくやから寄って行き」。予想だにしない回答に、思わず耳を疑った。おばあさんはもう自宅に向かって歩き始めている。「いやいや、申し訳ないですよ」。おばあさんの足を止めようと、慌てて答えたが、止まる様子もない。「いいから。これもご縁や。ついておいで」。先ほどの漁協では到底考えられないような急展開に、自分は気づかぬうちに違う町に来たのではないかと錯覚した。「えっ、良いんですか。すいません」。「いいから、いいから」。「こんな見ず知らずの大学生なのに」。おばあさんはまた、「これもご縁や」と嬉しい言葉をかけてくれた。人一人がやっと通れるような細い路地を、案内されるがままついて行く。少し丸まったおばあさんの背中は、神々しく見えた。
 歩いて数分、住まいは本当に近い場所にあった。「お父さん、彼氏連れてきたよ」。帰ってくるやいなや、変なことを言い出すおばあさんに、一緒に住んでいるおじいさんはポカンとしていた。当然である。「すいません、急に。驚かせてしまって」。やはり家に上がるのは申し訳ないと思いながらも、「さあ、入って。」とおばあさんに催促されると、断ろうにも断れない。「すいません、ではお邪魔します」。家の中は、どこか懐かしさを感じる雰囲気があった。「ここに座ってください」。座る椅子も指定されたが、私とおじいさんは、まだこの状況に困惑している。家に着いてからも、おばあさんとの会話が途切れることはなかった。雑賀崎の夕日の話や私の就職活動の話。また、私と、おばあさんのお孫さんの歳が近いことが分かると、2人は大いに盛り上がった。ただ、娘さんやお孫さんとは遠く離れて暮らしているそうで、それを寂しげに話すおばあさんの姿には、ジーンとくるものがあった。その話を聞くと、心優しく私を家に招待してくれた理由や、今私がこの場所にいる意味が分かった気がした。たまには私もおじいちゃん、おばあちゃんの顔を見に行ってあげないと。久しく会っていない祖父母のことを思い出した。

一番の売りは人

 13時35分。口を動かしながらも、おばあさんはお昼ご飯の支度を続けていた。先ほど持っていた白い袋の中身は、ネギがふんだんに入ったお好み焼きだった。偶然にも、袋にはちょうど3人分のお好み焼きが入っていた。もしかしたら、2人で1枚半ずつ食べる予定だったのかもしれない。しかし、おばあさんは購入した3枚のお好み焼きを均等に分けて、私の前にも置いてくれた。「では、いただきましょう」。ここで私はようやくあることに気がついた。まだお互い名乗ってもいない。慌てて紙とペンを取り、名前と連絡先を交換した。おじいさんは池口幸一さん、おばあさんは律子さんという。私はもらったメモをそっと財布にしまい、ずっと大切に持っておこうと誓った。律子さんも、「あなたが書いてくれたの、大事に置いておくわ」と、そのメモを壁に留めた。
 家族みんなで食べるご飯はひとしお美味しいとよく言う。今日初めて会った2人と食べるお好み焼きも絶品だった。食卓にはバナナやリンゴも登場し、私はお腹も心も満たされた。
 食事中は幸一さんが、幼かった頃の雑賀崎について教えてくれた。中学校を卒業してすぐの15、16歳のとき、父親に連れられ、長崎県の五島列島まで10日かけて一本釣り漁に出たという。漁場には、幸一さんたちが乗る小さい船を、知人が操縦する機械のついた船に引っ張ってもらうことで、たどり着いたそうだ。若すぎる漁師デビューと、今では考えられないような漁の手法に驚嘆しながら、幸一さんの話に聞き入った。
 私たちの会話を横で聞いていた律子さんが、タンスから古い地域雑誌を出してきた。そこには、60年以上前の雑賀崎の風景や、住民の生活の様子が詳しく記載されていた。当時からの大きな変化は、若い人がかなり町を出て行ってしまったことだという。しかし律子さんは、長い年月が経ってもほとんど変わっていない場所や、人付き合いもたくさんあると、しみじみと語っていた。私は2人に雑賀崎の歴史まで教えてもらった。
 14時20分。楽しい時間はあっという間に経過する。悲しいかな、お別れのときが迫っていた。幸一さんや律子さんと一緒に過ごしていると、まるで血の繋がった祖父母と同じ空間にいるような不思議な感覚に陥った。それは2人が私に対して、他人とは思えないほどの温もりと優しさを持って、接してくださったからだろう。「また、会いに来ます」。感謝の思いとともに、この1回きりのご縁にしたくない気持ちが溢れた。家を出るとき、2人の顔を見ると、涙がこぼれそうだった。律子さんは、私を駐車場まで見送りにきてくれた。「帰ったら、着きましたと連絡ください」。「はい、絶対に電話します。本当にありがとうございました」。思いもよらない出会いと別れだったが、雑賀崎の一番の売りはやはり人だということを身に染みて感じた。

雑賀崎で出会った池口律子さん(左)と幸一さん

我が子のように手にかける

 14時40分。カランカラン。「はーい、いらっしゃい」。予定より遅れて到着し、少し息を切らしている私を、竹原ママは明るく出迎えてくれた。スハネフに着いても、外は断続的に雨が降り続いている。いつもなら店内から雑賀崎の海と緑が一望できるが、残念ながら今日はぼんやりとしか眺めることができなかった。店に客の姿はなく、ママともう1人、スハネフのマスター原田武さんが懸命に作業をしていた。「線路のメンテナンスをしてるんです」と、ママが教えてくれた。スハネフは単に海が望めるカフェではなく、鉄道カフェの一面も持ち合わせている。店の中には、昔現役で走っていた電車の部品やプレートの一部が至る所に展示されていて、鉄道のジオラマも整備されている。それがまた、カフェにレトロな雰囲気を演出させていて、この上なくエモい。メニューの多くも、鉄道にちなんで名付けられている。今回はまだ飲んだことのないものを注文してみようと、ママに「50系ソーダ」をお願いした。一口飲むと、シュワシュワっと炭酸が口の中ではじけ、気分も爽やかになった。「機械ものは繊細なんですよ」。そう言いながら、マスターはジオラマの線路を我が子のように優しく手にかけていた。マスターとは初対面だったが、長身でハンサムな外見に加えて、声もたまらなく渋い。そんなマスターに、男ながら思わず見とれてしまった。
 もともと今とは全く違う内装だったが、家に眠っていたジオラマを店に持ってきたところ、客の受けが良く、特に鉄道ファンのリピーターが増えたそうだ。そこからさらにジオラマのクオリティを上げようと、画策していた4年前、大型の台風21号がスハネフを襲った。この台風の強風に煽られた船によって、関西空港の連絡橋が損壊されたというニュースは記憶に新しい。海風を真正面から受けるスハネフ周辺も風速60メートル近い暴風が吹いていたという。その影響で店の屋根は飛ばされ、制作途中だったジオラマも大きな被害を受けた。「良い景色も見せてくれるけど、怖いこともある」。当時を振り返って、ママはこう語る。困難を乗り越えて、2人が地道に修復作業を続けた結果、やっとの思いで2022年の5月にジオラマは復興した。完成までに要した4年という歳月も、客がまた喜ぶ姿だけを想像して、過ごしてきたに違いない。復旧した線路を走る電車たちの表情も、心なしか嬉しそうに見えた。

「スハネフ14―1」の店内。鉄道のジオラマが店中に広がっている

もどかしい実情

 15時20分。カウンターに座って40分あまり、来る者すべてを柔和な気持ちにさせるスハネフ独特の世界が、簡単に作り上げられたわけではないことを知った。それを知った上で見るジオラマは、また感動的である。よく考えれば、店内にも絶景が広がっていた。雨だからこそ気づくことができたのかもしれない。
 「このあたりはお年寄りが多いから、台風とか来るとやっぱり心配になるの」。ママは先ほどの話に続けて、こう言った。高齢化が進む雑賀崎は、空き家の増加も問題になっているという。ここへ来る道の途中には、使われなくなった空きホテルもちらほらと見かけた。それらは見るからに放置されている状態だった。日本のアマルフィと呼ばれるほどの、美しい景観にはそぐわない。「もったいないですよね」。雑賀崎を愛する私の正直な思いを伝えた。ママとマスターも、現状には歯がゆさがあるという。自治体は雑賀崎をより良くしようと動いてはいるが、具体的にどのような取り組みをしているのかが耳に届いてこないそうだ。「だから協力しようにもできない」と嘆いていた。年寄りが増えているとはいえ、雑賀崎には最近オシャレな飲食店がいくつかオープンするなど、若い人たちの進出がないわけではない。ただ、そうした町を盛り上げようとする活動が認知されておらず、それに続く人がいないのだ。日本遺産にも登録された雑賀崎を、市外や県外に広めようとする「リーダーがいないのがつらい」とママは残念がっていた。雑賀崎への並々ならぬ思いがあるからこそ、もどかしさを感じずにはいられないのだろう。話を聞けば聞くほど、そのことがひしひしと伝わってきた。観光地という華やかに見える場所で暮らす人でさえも、何かしら心のわだかまりを抱えている。日々の生活に悩みを抱え、現実逃避したいという思いから、雑賀崎と出会った私自身とも重なるところがあるように思えた。
 「都会は田舎に依存しているということをもっと理解しなければならない」。マスターはこの問題を、簡単な話ではないと危惧している。人材や食材、電気などインフラに関わるものの多くは田舎で作られ、都会に供給される。いくらITが成長しようと、第1次産業が国の根底にあることを忘れてはならないのだ。「みんな無関心になりすぎている」と強い語り口で話してくれた。マスターの重みのある言葉に深く共感しながら、私も社会に無関心であったと反省した。クラッシックが流れる店内も、このときばかりは少し堅い雰囲気になった。

雨がもたらした奇跡

 16時10分。窓の外が急に何も見えなくなった。思わず、「えー、すごい」と声が出た。「風がやんだからじゃないかな」。冷静なマスターが教えてくれた。雨は小雨になり、強く吹いていた風もやや収まっていた。それによって、周辺に霧が立ちこめ、外の様子が全く見えなくなったのだ。ママは、「雨もなかなか良い景色でしょ」と私に問いかけた。確かにと神秘的な光景を目にして、納得した。スハネフから見える景色は、1日でも大きく変わり、天気や時間によって、見え方がさまざまだという。それを実際に体感できて、得した気分になった。雑賀崎の表情の変化を楽しむために、スハネフに数日間通う客もいるそうだ。その人たちの気持ちも少し分かるような気がした。幻想的な風景を前にして、3人で感傷的な思いに浸る。いつしか店内もゆったりとした雰囲気に戻っていた。ああ、やっぱり落ち着く。2杯目のホットカフェオレをすすりながら、幸せな時間を過ごしていた。
 16時15分。先ほどの情景がウソのように霧が消え、また太平洋が顔を出した。灰色の雲は依然として残っているが、遠い地平線のあたりにはオレンジ色の夕陽が照っている。たった5分の間に、全く違う景色を見せてくれる自然の不思議に感銘を受けた。晴れた日にまた来たい。早くも4回目のことを考え始めていた。
 17時40分。景色の変化に感動した後も、3人でいろんな話をした。ママとマスターの出会いのきっかけや趣味の話。さらには、印象深かった客の話など。2人の口からこぼれる話題はどれも退屈しなかった。楽しく盛り上がっていると、あっという間に時間が経った。最後にママとマスターのツーショットを撮影させてもらったのだが、2人はまるで本当の夫婦のような間柄に感じた。会話中も私の存在を忘れて、2人だけで談笑する場面があった。ママとマスターの誕生日はともに11月22日。スハネフの開業日も同じ日だ。いろんな要素を含めて、雑賀崎とスハネフがより好きになった。結局私が店にいた約3時間、1人も他の客が来なかった。「雨の日はこんな感じ」と2人は笑う。最初こそ雨を憎んでいたが、雨で本当に良かったと思った。これほど濃い時間を、貸し切りのスハネフで過ごせたことは一生忘れないだろう。「本当にありがとうございました」。次また来る日を想像しながら、2人に感謝を伝えた。「またお待ちしてます」とママは言ってくれた。マスターにこのあたりでおすすめの温泉を聞いて、スハネフを出た。

幸せな帰り道

 18時30分。再び車を走らせて、紀州黒潮温泉に向かった。充実しすぎた一日の疲れを温泉で癒やした。マスターが勧める温泉だけあって、湯加減やサウナは申し分なかった。じっくり今日あったことを振り返りながら1時間近く入った。風呂上がりにはみかんソフトクリームを食べて、車に戻った。
 19時45分。エンジンをかける直前で、重要なことを思い出した。池口さん夫婦にお礼の電話をかけなければ。財布にしまってあった連絡先が書かれたメモを取り出し、記載されている番号に電話をかけた。電話の向こうからは律子さんの声がした。「関西大学の塚脇です。今日はお世話になりました」。私の声に、律子さんは一瞬戸惑っていた。私も一瞬不安になったが、すぐに「ああ、お昼の」と思い出してくれた。またそこで何度も感謝を伝え、電話越しで頭を下げた。「またいつか声聞かせてください」。律子さんのこの言葉に胸がいっぱいになった。
 20時20分。帰りは、雑賀崎に行ったらいつも行くラーメン屋に寄り、空腹を満たした。往路とは違って気分が晴れ晴れとしている。目が覚めると雨で、道は渋滞。着いてやっと人に会えたと思ったら、無愛想によそ者扱いをされ、危うく今日に見切りをつけるところだった。しかし、その後は不思議なまでに事態が好転した。心優しい池口さん夫婦との出会いや、スハネフの2人とじっくり語り合った濃密な時間は、かけがえのない思い出になった。雑賀崎で見た自然美も、雨だったからこそ目撃できたと今は思える。本当に何が起きるか分からない。最初から何かを決めつけたり、すぐにダメだとそっぽを向いたりせずに、前向きに生きていれば自ずと幸が舞い込んでくることがあると気づかされた。雑賀崎に行って、帰ってくるたびに自分自身が一皮むけたように思える。感謝と別れを告げて、町を出た。

「スハネフ14―1」のママ竹原朝子さん(左)と、マスター原田武さん

 22時30分。夜の道も渋滞していた。行きと同じように2時間近くかけて、自宅に戻ってきた。朝濡れていた家の前のアスファルトも、ほぼ乾いていた。「ただいまの後、まず何から話そうか」。そんなことを思いながら玄関のドアを開けた。(塚脇亮太)