コロナがもたらした変化をどう見るか?――メディア専攻教員インタビュー(下)
私たちは今、新型コロナウイルス蔓延という未曽有の事態にある。絶え間なく変化し続ける情勢を、関西大学社会学部社会学科メディア専攻の専任教員全15名はどのように捉えているのか。各々の専門分野から見解をうかがった。(奥村多瑛・土居朋樹・横山未来)
オンライン化のもたらすもの -松下慶太先生-
未曽有のコロナ禍において、教育や仕事のオンライン化が急速に進んだ。モバイルメディア・ソーシャルメディア時代におけるワークプレイス・ワークスタイルやインターネット・コミュニケーションを研究する松下慶太先生は、今回生じたオンライン化は「当たり前を疑う」きっかけになったと語る。「今までは会社や学校に行くという選択肢しかなかったが、オンライン化によって行かないという新たな選択肢が示された。すると、それまでの生活で何を無意識に前提としていたのかが見えてきた」。例えば、在宅で仕事をしていくなかでオフィスに行くことは本当に当たり前なのかを疑う。特に先進国の中でも柔軟さに欠ける日本の働き方を考えた時、この気づきはメリットであると言える。
しかしながら、オンライン化にはデメリットももちろんある。「メリットとデメリットはすべてコインの裏表と同じ」。つまり、デメリットはメリットの裏返しだ。松下先生は、デメリットの一つとして、「余白部分の消失」を挙げる。例えば、通勤通学を大変だと感じていた人は、オンライン化によって楽になったと考える。しかし、そうした移動時間の解消=余白の消失は、モードチェンジを難しくし、偶発性を減少させる。会社や学校に向かう移動時間に偶然目にした何かが仕事や人生に関わる大きなきっかけとなるかもしれないが、オンライン化はそうした可能性を失くしてしまうのだ。また、「余白」は自分のモードを切り替える、生活のクッションの役目を果たしていたが、リモートで簡単に場を切り替えられる生活になり、気持ちの切り替えが難しくなっている。
格差もオンライン化により顕在化してきた問題の一つだ。ビジネスや働き方に関し、この数か月だけでも「富める者がより富む。以前から人脈や経済的余裕のある人はさらにそれを拡大させるが、もともとそれらがない人はあらゆる機会を得られない。これもコインの裏表。双方の格差は開いている」。もともと社会が抱えていた問題が、コロナ禍によって顕在化しているともとれる。
私たちはこれから、ウィズコロナの世界を生きてゆく。オンライン化はさらに拡大し、今以上に日常の大部分を占めていく可能性は高い。しかしながら、「実際の経験や体験に価値を付加したり、価値を見出していく。アプローチは変わるだろうがその本質は変わらない」と語る松下先生。メリット・デメリットがあるからこそオンラインをどう扱うか、そしてオンライン化が進むからこそオフラインの意義とは何か。また、オンラインとオフラインがハイブリッドになった経験やその価値がどう生み出されるのか。これからの時代の大きなテーマとなるだろう。
(執筆:横山 取材日:2020年6月4日)
コロナ時代のメディアとスポーツ観戦 -黒田勇 先生-
スポーツ観戦の醍醐味は、試合会場でこそ味わうことができる。多くの人がそう感じているのではないだろうか。しかし新型コロナウイルス感染防止のため、無観客で試合が開催されることが多くなり、メディアを通した観戦が目立つようになった。コロナ禍によってスポーツのあり方にはどのような変化が生じるのだろうか。放送論やスポーツ社会学を研究する黒田勇先生に話を聞いた。
これまで、スポーツ観戦は観客の生の応援があるからこそ成立し、現場の空気感や一体感からスポーツの「リアリティ」が生まれると考えられてきた。ところがいざ無観客試合がやむなくはじまると、必ずしもそうでないことがわかってきたという。「スポーツの本質は、プレイヤーとオーディエンスがいること。観客が実際に現場にいなくても、プレイヤーとオーディエンスがお互いにリアリティをもっていればいい」と黒田先生は語る。普段からテレビ中継やインターネット配信などメディアを通して観戦する人の方が大多数である。今や観客はメディアを通してでもリアリティを感じることができ、人々はこの事実に気付き始めている。無観客試合にも次第に慣れ、それに合わせてビジネスモデルやプレイヤーのもつリアリティが変容する可能性は十分にある。
また、近年スタジアムにおいて、プレイヤーと観客の境界線が溶けだしているという。技術の発達に伴いメディア越しの観戦が拡大するなか、主催者も「スタジアムの観客は演出の一つであり、メディアを通した向こう側にこそ本当の観客がいる」という認識を持ちはじめたのだ。例えば、お金を払って現場に観にきている観客が、メディア越しの観客に向けて一斉にパネルを掲げる演出がある。こうした光景を多くの人が違和感なく見ていたことだろう。もはや「スタジアムの観客対プレイヤー」ではなく、「メディア越しに見る人対スタジアムでイベントを盛り上げる人」という構図になってきている。そしてこの現象がコロナ禍の無観客試合によって、より加速しているのだ。
「コロナ禍において、メディアとスポーツの関係は、一つのターニングポイントを迎えた」と語る黒田先生。メディア越しでもリアリティを感じられるということ、無観客試合の可能性、そしてスポーツ観戦における境界線。コロナ禍によって顕在化してきた事象が刺激となり、これまでとは違うスポーツ観戦が生まれてくる。これからはどのような形で感動が届けられるのだろうか、目が離せない。
(執筆:横山 取材日:2020年6月3日)
ソーシャルメディアの新たな使い方を求めて -溝口佑爾先生-
「今まではソーシャルメディアがなくても生きていくことができたが、新型コロナウイルスの感染拡大を経て、広い意味でのソーシャルメディアが不可欠になってきた。今後、ソーシャルメディアの新しい使い方をどのように見つけていくかがポイントになる」。こう語るのは、社会情報学を専門に研究する溝口佑爾先生だ。
かつては「声」のメディアだけが世界を占めていた。同じ空間を共有し、対面下でのみ伝わる双方向的な伝達手段がコミュニケーションのすべてであった。やがて「文字」が生まれ、遠隔的で一方向的な情報伝達が可能となった。しかし、その文字はあくまで「声」の補助としての文字であり、声を立てて読むための文字であった。「文字」が「声」と並んで主要なメディアとなるためには長い時間が必要だったのである。
ソーシャルメディアが出現し、遠隔的で双方向性な情報伝達が可能となった。しかし、ソーシャルメディアはあくまで補助的であり、「声」と「文字」の情報伝達を助けるためのメディアとして使われていた。かつての「文字」と同様に、ソーシャルメディアが必須のメディアとなって社会を作り変えるには、長い年月がかかるはずであった。
新型コロナウイルスの感染拡大による3密と濃厚接触の禁忌とは、その切り替えを断行する出来事だったのである。対面でのコミュニケーションが難しくなり「声」のメディアが封殺されてしまったことで、双方向的な情報伝達を行うためにソーシャルメディアを使用することが余儀なくされてしまった。
この状況を肯定的に捉えようという試みが、遠隔コミュニケーションのみで人間関係の築き方を探求する「全力自粛大学生の遊び方」である。Zoom鬼ごっこ、Zoom運動会、餃子を作って食べるだけのオンライン・ギョザリング、遠隔で撮影を行うZoomグラフィ。溝口ゼミでは「遊び」をテーマに設定し、ソーシャルメディアのみでのコミュニケーションの可能性を模索し、その成果をnoteで発信している。「声」でしかできなかったはずの人間関係の構築をソーシャルメディアのみで実現することができたなら、社会を支える新たな仕組みになるはずだ。
(執筆:奥村 取材日:2020年6月2日)
今だからこそ求められる広告・マーケティングとは -水野由多加先生-
「新型コロナウイルスの影響により、私たちの日常がことごとく破壊された。人と対面して話すことや、人が集まるところに出かけることなど、普段あたりまえにしていたことができなくなってしまった。しかし、そんな社会だからこそ、人々は共同性を求めている」。近年、広告ビジネスの変化をとらえ、社会現象としての広告を研究する水野由多加先生はこう語る。
共同性を求める消費者の気持ちを察知し、企業の広告ではたくさんの人が出演し、皆がリモートで繋がる形式が増えた。さらに「全員でこの苦境に立ち向かおう」というメッセージによって消費者の共感を仰ぎ、企業イメージを向上させる狙いもあった。「広告やマーケティングはその時代の消費者のニーズに寄り添ったものが好まれる」。水野先生はわかりやすい例としてRENOWNとONWARDを例にとって説明した。コロナウイルスの影響によって業界大手のRENOWNが倒産したのに対し、同じく大手のONWARDは業績を下げたものの特徴的なテレビCMを打った。この差はどこにあったのだろうか。
ONWARDは新型コロナウイルスの流行により、オンラインでの業績を5月には前年同月比で80%増やすことに成功したという。これを促すように「#StayStylish」という広告を打ち、たくさんの有名人がリレー形式で「今、私たちは、試着室の中にいる」というキーワードのもと、コロナ後の社会でファッションを楽しむための準備期間として映像を紡いだ。「このタイミングに広告を打ったことにとても驚いた。こういった時代や環境に的確なマーケティングは何かを考えると、とても面白い」と水野先生は笑顔で語る。
この未曾有の事態に多くの企業は苦戦を強いられている。柔軟な対応と的確なマーケティングができる企業がこれから躍進していく社会において、これからどのように企業が躍進していくのか。今後の動向に注目していきたい。
(執筆:土居 取材日:2020年6月5日)
コロナ禍における報道差は存在するのか -吉岡至先生-
これまで、大雨や地震などの自然災害が発生した場合、被災地外の人びとの当事者意識のなさが問題にされることがあった。報道は盛り上がりを見せるものの、自分たちが被災していないために、どうしても「他人事」として捉えてしまう。今なお感染が広がっている新型コロナウイルスも日本社会を襲った災害のように見える。テレビや新聞はその話題で持ちきりだ。しかし、その「広がり」は地震や台風と異なる。これまで想定してきた災害は、基本的に局所的に顕われるものであったのに対し、コロナウイルスにはそのような限定性がない。濃淡こそあれ、全国でリスクを引き受けている。
こうした新型コロナウイルスの特性は、報道にどのような影響を及ぼすのだろうか。地域社会やジャーナリズムについて研究する吉岡至先生は、「テレビと新聞の報道を合わせて考えると、コロナ禍の報道内容は都鄙(都会と地方)の差はそれほどないのではないかと思います」と語る。テレビのニュースは時間の比率で言えば圧倒的に全国ニュースが多く、その情報は東京を軸としたものに偏っている。ただそのなかでも、夕方の地方ニュースではそれぞれの地域の実情に応じた報道をしている。一方、新聞の場合は「東京都や大阪府などを除く各道府県は地方紙(県紙)を講読する人が比較的多いので、地方の人はそれぞれの道府県の新聞の記事を読むことで、居住地域の情報を得ている」。つまり、人びとはテレビと新聞の両方の情報に触れることによって、「居住地域の情報を得ていると同時に全国的な記事にも接触している」のだ。そして、コロナ禍において、私たちは居住地域と全国的な記事、そのどちらにも関心を示すようになっている。
平常時であれば、東京の情報に関心を持つのは東京の人だけであり、地方の人びとにとっては興味を持ちにくいものだった。しかし、コロナ禍において、東京でどのようにクラスターが発生しているかは、地方が対策を講じるための重要な情報となる。これまでの自然災害は被災地/非被災地に明らかな差異があるため当事者意識をもちにくかったが、コロナウイルスでは日本のどこにいても当事者になりうる。「Go Toトラベル」のように、人の移動があるからこそ、他地域の感染状況への関心は自然と高まっていく。
新型コロナウイルスは、従来の中央/地方、被災地/非被災地といった二項対立的な見立てでは捉え切ることができない。今までとは異なる枠組みで、情報環境を考える機会なのかもしれない。
(執筆:土居、文章応用実習担当教員 取材日:2020年6月8日)