見出し画像

世界の仕組みをシンプルに表す太極図

東洋哲学や思想、特に中国の道教や儒教の伝統において太極図(たいきょくず)というのがあります。

多くの方はご覧になったことがあると思いますが、陰陽の理念を表現している重要なシンボルです。

今日はその意味について探究していきたいと思います。

太極図と世界の成り立ち

太極図は、白い部分と黒い部分からなる円で構成され、互いに対立しながらも相互に作用し合う二つの力、つまり陰と陽を示しています。

陰と陽はこの世を構成する相反する性質であり、宇宙の成り立ちから現在の世界の姿と特徴をこの図はシンプルに表している意味深いものになっています。

私の解釈を交えてこのシンボルとそれが表現している世界の仕組みをストーリー仕立てで紐解いてみたいと思います。

陰と陽は元々は「一つ」でありました。
この世には「一つ」しか存在しなかった。
一つしかないということは、一つ以外なく、全ては一つ、一つは全てなので、一つ以外というものは存在していませんでした。

一つには全てが含まれているので、完全に満たされて調和されています。

しかし、一つは一つ以外の存在がないため、一つであることを知ってはいましたが体験として知ることは出来ませんでした。何故なら自分以外がいて初めてそこに違いやコントラストが生まれ、その違いを通してこそ自分を定義・認識でき、自分を知ることができますが、一つ以外の存在がなければ、一つは自分を認識することはできません。

そこで一つは、自分がどんな存在であるかということを体験として知りたいと思いました。

一つは全てで、一つしかないので、全てである一つの中で違いを生み出そうとおもい、一つの中で分離というものを作りました。

一つが一つの中で、分離のために極を持つことによって違いが生まれました。それが二元の世界、つまり陰と陽です。

そしてそれぞれがさらに陰と陽に分かれて、陰と陽に分かれて、、と無限に繰り返し、それぞれが様々な個性を持った存在になりました。

それが超単純化したこの世の成り立ちであると考えています。

実際にはそれが多次元、様々なレベルで分かれているのだと思います。そしてそれぞれの末端にいるのが私たちそれぞれの魂であり、腸内細菌であり、一つ一つの細胞や原子、目に見えるもの、見えないもの、全ての物質やそうではないものを含めて、それぞれの存在なのだと思います。

すべての目的は、全てである1つが自分自身を体験し自分自身を知るための壮大な仕掛けなのだと思います。

分離したそれぞれの存在は、それぞれが全く同じものはなく、違いがあるがゆえに、それがコントラストとなって、自分とはどういう存在なのかを違いを通して知ることができます。

しかし、分離したそれぞれは元々一つから生まれたので、一つの要素をすべて備えています。それぞれの中に一つである全ての要素が入っているということです。例えるなら、桃の木から桃の実がなって、その種には親である桃の要素が全て詰まっていますから、種を植えるとまた桃になることができるポテンシャルを持っていることと似ています。

分離したそれぞれは、様々な体験をすることを通して、本来の自分は一つ=全てであるという事を悟るということを永遠とやっているというのがわたしの世界に対する認識です。

太極図そのものの意味

太極図に表されている白い部分は陽で黒い部分は陰です。陰と陽は真ん中で完全に2等分されているのではなく、ぐるぐる回っているかのように描かれています。そしてそれぞれの真ん中には反対の要素が点として含まれています。

この図の意味は世の中のすべてのものは陰と陽のバランスによって成り立っていると考えます。陰と陽は表裏一体の関係で、相対するものでありながら、相互に依存しつつ、二つで一つです。そして完全な陰、完全な陽は存在しません。「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という言葉があるように、常に変化しながら調和を取っています。

この図が表すように、バランスと調和こそがこの世の真の姿であるということ。それは生き方や健康なども含めて全てに通じるところがあります。

光があるから闇もあり、闇があるから光もある

西洋の世界での二元論は光と闇、善と悪というように対立したものを定義し、どちらか一方に物事を分類しようとするような考え方がありますが、私は二元論も陰陽も本当のルーツは同じだと考えています。

本当は真っ二つにスパッと善か悪かを決めることは出来ず、2元の間はグラデーションになっており、善の中に悪があり、悪の中に善があると思うからです。何故なら元々善も悪も一つであり、善も悪も分離されているものではないからです。善も悪も最初からないとも言えるかもしれません。

光は闇がなければ存在できません。闇も光がなければ存在できません。闇というのがあるからこそ、光の輝きを光の輝きとして知ることができ、光があるからこそ、闇の暗さを知ることができる。光があり闇がある。光の中にもちょっとした闇があり、闇の中にもちょっとした光がある。

光の中に見える闇の一点、また闇の中に見える光の一点、これは選択の自由を表しています。私たちが選択しさえすれば、光の中にいる時でも、いつでも闇とつながることができ、闇の中にいる時でも、いつでも光とつながることができます。光と闇は永遠にお互い絡まり合っています。分かちがたい存在です。

なので、どれだけ暗い状況に見えたとしても、常に光とつながることができるのです。これが、この世の仕組み、存在そのものの特質です。

意味のない無駄な過去はない

これまでお話ししてきたように、どんな暗くて辛い過去であっても、悪いことばかりではありません。過去すらも陰と陽なのです。例え、暗くて陰が極まったような過去であっても、必ず陽がありますし、陰が極まれば、かならず陽に転化していきます。

闇を知らなければ、光を理解できません。光も意味をなしません。光と闇の両方を経験することによって、より大きな新しい意味、より大きな新しい経験をつくり出すのです。一部だけではなく、全体が見えてくるのです。

今わたしたちの状況が思う通りでなかった場合、わたしたちが過去にやってきたことは間違っていたということになるのでしょうか?

誰でも階段を登ったことがあると思います。
階段の最初のステップに足をかけると、それによって二番目のところにも足をかけられます。そして二番目に足をかけると、三番目にも足をかけられるようになります。各ステップを踏むことによって、階段の上まで高く上がっていくことができます。

それでは、五番目のステップに足をかけているときに、五番目にいるからと言って、一番目は意味がなくなってしまうことになるのでしょうか?そうではないはずです。

階段の一段目の存在があるように、わたしたちが過去にいろいろなことを経験してきたからこそ、今さまざまなことを創り出すことができるのです。

自分が過去に経験したことは無価値だとみなしてしまうと、自分自身が価値のない存在だと認めることになります。

しかし、今まで自分が経験してきたことは、全て間違いではなく、今、自分が置かれている場所に自分を連れてきてくれたと評価することができれば、どんどん上に行ける強い階段を持つことができます。そして最終的に、わたしたちを高いところまで連れて行ってくれるのです。

なので、わたしたちは、過去の経験も含めてすべてが意味のないことはなにもなく、どんな出来事もどのように捉えるかによって、強い階段にもなりえます。それほどわたしたちにはパワーがあり、強さを持っているのです。まずは自分にそれだけのパワーがあるということ、その事実を自分に許してあげることが大事だと思います。

それがわたしの太極図の捉え方(の一部)です。

最後までお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?