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エッセイもしくは文芸ができること

今朝、とあるnote記事を読んで、いろんな人に読んでと強くおすすめしたいと思ったのだけれど、上手く感想が言葉にならなくて、夜になってようやく何か言えそうな気がして、このnoteを書いている。

これです。

以前日記に書いた人とは別の方。Xでつながっているライター仲間さんで、能登半島に住んでいることはプロフィールを見て知っていた。被害に遭われたこともツイートから察せられた。しかし、輪島市だったとは。

地震当日の様子や避難生活の様子の大変さがありありと伝わってくるのだけど、冒頭に書いてあるように、ちびさんはどこか傍観しているような気持ちでいた。自分事として感じられるようになったのは被災してしばらく経ってからだ。

本当に自分のことになったのは、息子の寝言と叔母の死である。身内に何か起こってはじめて自分のこととして感じられるとは、冷たく情けないが事実だ。

「自宅で起こった能登半島地震が自分ごとになったとき 」ちび@A dog lover

ニュースを見て心配していたわたしは、実際に被害にあった人から話を聞いて少しだけ自分事になったけど、まだまだ自分事というにはほど遠い状態だった。でも、こんなにも被害を受けて大変な思いをしている人でもまだ完全には自分事にはならない余地があることに衝撃を受けた。ああ、なんだ、一緒だと思った。一緒じゃないけど、一緒だと思った。

もちろん被害を受けた人みんながそうじゃない。ちびさんは、あくまで、徹底的に、自分がそう感じたということだけを書いている。ちびさんが、そう告白してくれたことで、安全な場所で自分事になりきれずに日常に追われているわたしは前よりも他人事では済まされなくなった。「被災者」と「被災者ではないわたし」という区分が壊される。もともとそんな区分は存在しないんだと思った。わたしが勝手に壁を築いていた。自分だけは安全でいたいから。地震はそんな概念の壁なんか考慮してくれないから、そんな壁、気休めにもならないのに。わたしには起こらないと言えるはずがないのに。

ちびさんの記事は、まごうことなく、わたしの考える理想のエッセイだった。エッセイの定義は人それぞれだけど、ビジネス書やセールス文や解説書や自慢話と違う独特の味わいがある。その味わいは、自分がどう感じどう考えたかを書くことで生まれるとわたしは考えている。

他人の気持ちを勝手に代弁しない。ただただ自分の気持ちと向き合って、それを言葉にしていく。大勢の平均値や代表値を書くのではなく、個を見つめて書いていく。エッセイにしろ、小説にしろ、短歌にしろ、個にスポットを当てるのが文芸だと思う。n=1の事例が何の役に立つのかと思うかもしれないが、徹底的に個を書くと、社会生活の中では決して見ることができない、生々しい人間の姿が立ち現れる。それは読む人の心を奥まで照らしてくれる。自分という人間を知るための灯りとなる。

ちびさんは「人は情報量が多いと感情をシャットアウトするのかもしれない。」と書いている。たぶんそうだと思う。そうでもしないと大変な状況の中、行動を起こせない。ちびさんや他の被災された方が、感情をシャットアウトしたことで後から心身につらい影響が出ないといいなと願う。

そして同時に、災害にあったわけでもないのに、自分は、感情をシャットアウトして生きているのではないかという思いが頭をよぎる。目の前のことに対処し続けながら、わたしの感情はどんどん声を失っているのではないかと不安になる。

これ以上逃げられない、本当に逃げられない悲劇が訪れるまで、悲劇はすべて他人事のような気持ちで生き続けるのかもしれない。ある意味、それはたくましいというか、頼もしいというか、生きる知恵のようなものなのだけど、だからといって壁を築いてはいけない。築いた壁は壊さなくてはならない。

壊すコツはきっと人間同士でつながることだ。肩書とか役割とか、そういうのじゃなくて。被災者とか当事者とか、そうじゃなくて。ただの人間として、考えとか感じ方とか弱みとかを伝えて、伝わった人が、あ、自分と同じだと思った瞬間、壁に穴があく。会ってしゃべってつきあって、というのが一番いいのかもしれないけれど、会えない相手にもそれができるのが文芸だと思う。もしかしたら、会って話すよりもずっと深くつながることができる、と、わたしは信じている。

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