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「自分の心で感じ自分の頭で考える子どもを育てる学習プログラム」を考えてみた話

ある日、とてもパワフルなある人に、あなたは何かやりたいことはないのか、あるなら企画書を書いてみろ、出してくれたら何かにつなげてあげる(要約)みたいなことを言われた。

(うーん、わたしは自分がのんびり幸せに生きられたらそれでいいから、企画とか大変すぎるかも)

と、内心ちょっと思いつつ、でもそろそろ自分のことばかり考えず、社会に恩を返していかなくてはいけないという気持ちも湧いて、なきにしもあらずなやってみたいことを、えいやーと企画書を書いてその人に出した。相手は、ほんまに書いたんかい、みたいな反応で、読んでくれたのかどうかもわからず、その後どうなったのかわからないけれど。

まあ、いいんだ、自分の考えを改めて言葉にできてよかった。そして人に見せられたことが大きい。こんなこと考えているわたしもいるんだなって思った。せっかく書いたので、noteに載せて供養させておこう。いつか、誰かに届くかもしれない。


<企画書>

自分の心で感じ自分の頭で考える子どもを育てるための「感情を言葉にする」学習プログラム

企画の背景
現在の教育は、主人公の気持ちをまとめる方法は教えても、自分の気持ちを見つめて言語化する方法は教えません。もやもやした不快な気持ちの中には、「怒り」「寂しい」「悲しい」「不安」「自責の念」「情けない」「怖い」など、状況や本人の性格によって、さまざまな種類の感情が含まれており、自分で適切な感情を見つけるスキルがあれば、セルフカウンセリングも可能です。自分の気持ちがわからないと、たとえば、寂しくても不安でも区別がつかず、負の感情はすべて怒りや暴力で表出してしまうというような、単純な人間ができあがってしまいます。言葉がなければ人は思考できません。感情を言葉で表せないということは、豊かに感じることができないことと同じです。

また「感じる」ことは思考の出発点でもあります。世の中の事象や書物などを見聞きして、引っかかったり疑問に思ったり心を動かされたりできなければ、自ら思考を立ち上げることはできません。

本来、感情の語彙を育てる役割は読書が担っていました。心の動きを細かく描いた良質な文学作品は、言葉にならない読者の気持ちを代弁し、そこから感情の在り様を学ぶことができました。また手紙などのコミュニケーションでは自分の気持ちを言葉で表す必要がありました。しかし現代では、短時間で切り替わる映像メディアが人気で文学作品を楽しむ人は減り、絵文字や写真や「いいね!」やスタンプなどで、類型的な感情表現だけでコミュニケーションを済ませられるようになりました。

さらに、常にせわしなくネットにアクセスしていれば、自分の感情と向き合い、深く思考する機会もなくなります。このままでは外部環境に対して類型的な反応しかできず、状況に応じて思考し正しく判断することができない人間が増えていくのではないかと危機感を抱いています。

自身の感情を知ることはその人の幸せな人生にもつながります。個人の幸せはその人自身が試行錯誤して「創造」するものですが、そのためには、自分で問題を発見し、思考する力と想像力が必要で、その出発点として、自分の身体感覚を起点とした「感情」の言語化は、これからの時代に必須の学びであると考えました。

<現状分析>

実例1:「自分の考え」をどうやって考えたらいいのかわからない受験生

わたしは予備校で医学部志望の受験生の小論文を18年間指導してきました。医学部の小論文入試では、医療の意義や社会問題やコミュニケーション論につながる文章を読ませ、自分の考えを書く問題が出されます。

これまで与えられた問題を解く訓練しかしてきていない受験生は、示唆に富む課題文を読んでも、そこから何かを感じとり、問題発見をし、議論を立ち上げることができません。<何を考えるかを考える>ことができないのです。

問題を発見するためには、心を動かす必要があります。「このままではダメだ」「こんな状態はひどい」「そうだったのか!」など課題文や社会の問題に対して、心を動かして初めて、「じゃあどうすればいいか」「なぜなのか」と考え始めることができます。

なぜ、自分の考えを思いつかず、課題文を要約して「私も著者の意見に賛成だ」としか書けないのか。それは、課題文を受け身でしか読めず、心を動かすこと、または動いた心を感じ取ることができないのではないかと考えるようになりました。

実例2:自分の感情を感じ取ることができない大人たち

芸術大学の通信制教育部で社会人に向けた文芸授業を行っていく中で、多くの人が見たものを描写することはできるけれど、自分の感情を書くことができないどころか、感じ取ることすらできないことに気が付きました。特に長年、会社勤めをしてきた男性にその傾向が顕著でした。また受講者の中には長年感情を押し殺して生きてきたことに、講座で初めて気が付いて、これまでの人生を悔やまれる方もいました。

以上の経験から、子どものときに、教育の現場で、自分の感情や考えを表す方法を知り、練習しておくことは人生の多くの面で有用だと考えました。

<具体的な方法・アイデア>

1.感情の言語化を導くアプリ(ゲーム)で感情の語彙を増やす

わたしが授業で何度も行って成功している方法ですが、自分が何を感じているのかわからない人には、まず「いい気持ち(快)」か「悪い気持ち(不快)」かを尋ねます。大抵、どちらでもないと憮然として答えますが、どちらかといえばどっちなのかを強制的に決めてもらいます。その次に「静かな気持ち」「激しい気持ち」か尋ねて答えてもらい、それに合う言葉をアシストします。

例:感情を言語化する授業中に「今のあなたの気持ち」を聞いた場合

▶どちらかといえば不快と答えた場合

→激しい→講師「(できなくて)悔しい?」 受講生「それです!」

→静か→講師「(できなくて)不安?」 受講生「そうかも…」

▶どちらかといえば快と答えた場合

→激しい→講師「わくわくしてる?」 受講生「そうですね!」

→静か→講師「穏やか?」 受講生「はい、自分の心を見つめると落ち着きます」

選択肢を与えて絞っていけば選ぶことはできるので、このような単純なアプリを製作し、ゲームのような形で子どもたちに遊んでもらえば、感情の語彙が増えるのではないかと思います。

2.日本の読書感想文の在り方を変える授業
読書感想文の宿題は、誰に聞いても嫌な思い出しか出てきません。どうやって書いたらいいのかわからないという戸惑いの声をよく聞きます。自分の気持ちを感じとれない生徒たちに、気持ちを感じ取りにくい課題図書を読んで書かせることは二重苦です。次のようにいくつかの段階に分けて学習させることが必要です。

①マンガやアニメなど、自分の好きなもので感想文の書き方を学ぶ
②文学作品などをどのように読めば面白いのかを学ぶ
③文学作品などの読書感想文に挑戦する

読書感想文は、自分の感じたことをまず言語化し、そこから思考を立ち上げて考察を深めていくというプロセスの格好の練習になります。授業を通して、または学校の先生たちに伝えて、読書感想文の取り組みを有意義なものにしたいと考えます。

3. 自分の感じたことを話しあう授業
たとえば美しい夕焼けを見て、わくわくする人や、悲しくなる人、不安になる人など、感じ方は人それぞれです。ですが、「美しい」という言葉で表してしまうと、人の心の多様性は見えてきません。まずは感情を言葉にする練習をし、感じたことを話し合うような授業があれば、自分とは違う感じ方の人を尊重できる大人になれるのではないかと考えています。

20代の大学生の授業を担当したことがあり、ディスカッションやリベートを試みたことはありますが、どこかに書いてある答えを探そうとして、正しいことを言おうとしてしまい、自分で思考しない人が多いのが実情です。アクティブラーニングは名ばかりです。しかし「自分の感情」はグーグル検索しても出てこないため、本当に自分の頭と想像力を働かせる、良い練習になると思います。また不正解はあり得ないので、自分の考えを受け入れられる良い経験になると思います。

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以上!
うん、いま読み返して、これ受け取った方も困るだろうなあって思った。これだけじゃ伝わらない…。企画書難しいな。

アプリ開発は大変だけど、アプリじゃなくてもできるし、ほかも、お金もかからず、特殊な技術もいらず、全部すぐできる方法だと思うんだけどな。教育の現場で奮闘されている先生たちや、子育て中の親御さんたちの、何かヒントになったらいいなと思いながら、ここに放流します。頭の中の考えは、外に出さなきゃゼロのままだしね。

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