見出し画像

名に縛られていた

一般文芸もライトノベルも官能小説も漫画原作も理系ライターも大学講師もすべて同じ名前でやってきた。仕事ごとに名前を変えるという選択肢もあったのだけど、なんだかそれは無責任なような気がして、すべて寒竹泉美の名前を背負って責任持ってやらなければいけない、と思っていた。

でも冷静に考えてみれば、理系ライターが女子向けの恋愛小説を書いているのは面白いけどメリットになるわけでもなし、なんだか訳がわからない(理系小説ならまだしも)。逆もしかり。面白いけど、研究の話など、恋愛小説の読者にとっては要らぬ情報だ。

全部同じ人なんだからしょうがないじゃないかと開き直りを続けることもできるのだけど、ふと、ある問題に突き当たって、今までの自分の考え方がひっくり返った。

わたしは、かつて「僕」という一人称で小説を書いていたことがあり、今はなるべく書かないようにしているという問題だ。なぜ書かないようにしているかたいうと、わたしが僕と書いたら、女が僕と書いているわけで、どんなふうに書いても「実は女が書いている」ということがつきまとう。わたし自身がそんなふうに女性作家の「僕」を読んでしまう。それって、読者にとって要らぬ情報であり、作品の足を引っ張っていることになるのではないか。

作者は作品の奉仕者だとわたしは思っている。オーナーではないのだ。作品が一番輝くようにベストを尽くすのが仕事だ。
寒竹泉美という名前が作品の足を引っ張るのなら、わたしはなぜ、1つの名前で活動することにこだわるのだろうか。もちろん違う名でやっても詳しく調べたい人は調べてわたしに到達するし、隠すつもりはないけれども、知りたい人は知ってくれたらいいし、多分その人は人物も含めて楽しむということを選んだ人だ。でも、そこまで深く作者のことを知りたくない人もいる。名前を変えれば知ろうとしない人の読書を邪魔しないことはできる。

そんなふうに考えて、わたしはようやく自分がなぜ名前を変えたくないのかわかった。見て見ぬ振りしていた子供っぽさに気がついた。名前を変えたくないのは、すべてのお手柄を自分のものにしたいからだ。

そんな理由なら、そんなことで、作品の足を引っ張るのはわたしの本意ではない。
たとえば、1つの会社がターゲット層ごとにさまざまなコンセプトのブランドを出しているように、全く違う名前で違う小説ジャンルでデビューして、ブランドのイメージを作り上げてもいいわけだ。

少なくとも、この名前から離れられば、僕が黙る理由がなくなる。新しい名を得た僕は、もっと自由になれるのではないだろうか。

注目されて、ほめられて、名誉を得たいという気持ちから自由になれるのではないだろうか。

書いたものが誰かに届いてその人が読んでよかったと思ってもらえたら、僕が書いたことなんて知られなくていい。心からそう言えるようになるのではないだろうか、いつか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?