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いつになればを待ってはいられない

ギランバレーになって、見通しは常に不明瞭だった。

医師にも病気がどうなるか分からないってこと
あるんだと初めて知った。

何故か医師は何でも治してくれそうな、
何となくそう思っていたし、思いたかったのかもしれない。

でも、父が肺がんになった時、それは打ち砕かれたはずだった。
ステージⅡだったのが、僅か2週間で、Ⅳになったじゃないか。

「急に進んだ」なんてことがあるのかと思った。
ウソをつかれていると思ったし、その時も多分そう思いたかったのだ。

何も出来ずに父は亡くなった。
若い時から母を泣かせてばかりだったけれど、
母は父が大好きだった。子供の私も敵わなかった。

最後まで苦労をかけて、泣かせて。
そう思ったが、母は全く泣かなかった。
「最後まで看取ることが出来たから、これからは自分の人生を生きる」
そういった母の顔を、今でもはっきりと覚えている。

嬉しくて、習字を習いだした母の作品を見に
市民ホールみたいなところに行ったり、
急に言われてバスツアーに付き合ったりした。

ノビノビ楽しむ母を見て、父はどんな顔をしているのだろうと
可笑しくなったが、楽しかった。

それなのに、自分がギランバレーになった。
毎日毎日、腰痛をおして病院に来る母。
小柄な体で大きな着替えとオムツの袋を両手に下げて
疲れが隠せないのに、自分より大きくて重い娘の介護をする。
その姿を思いだしては、一人の病室で涙が出た。

消灯後の病室で、父に謝った事も何度もある。
父の事をさんざん言ったのに、同じことしちゃったと。
「今度は貴女なの!」と思った事もあったらしいが、
母が帰る時、私は何とも情けない顔をしていて
何も言えなくなっちゃったわとも言っていた。

顔面神経麻痺で無表情なはずなのに、
心細さが全身からあふれ出していたと。
「ここにいてよ」って顔してたわよと、
退院して、だいぶ経ってから言われた。

その位、見通しが立たないのは不安だった。
「いつまで?」「いつになれば?」に対して
「神経が傷ついての病気なので」。

それはそうなんだけど、眼球が少し動くだけの状態で
頭の中は、病気になる前と変わらない。
切り替えなんて簡単に出来るはずもなく、
次第に感情や思考が消えていった。

それでもリハビリ病院で、幸運な事に自分で出来る事が増え、
生活の質が上がるにつれ、少しずつ落ち着いていった。

退院して自宅に戻り、少しして週に3日だけど、
仕事にも行けるようになった。
そんなある日、母が私に
「そんな(麻痺して歪んだ)顔で、
(外に)出したくなかった」と言った。

傷ついた。
そんな風に思っていたのかと。

近所の人に会った時、
「良かったわね。大変な病気だったんですって?」と
皆声をかけてくれて、嬉しかったのだけど、
それも嫌だったのかなと思った。

でも、いつになったら顔治るの?
その間、外に出るなって事?

それは無理だ。
いつになるかわからないんだもの。

だったら、今のまま頑張るしかない。
前にも書いたけど、今出来る事をやるしかないんだ。
そんなこと言ってたって、ただ年取っていくだけなんだから。

傷つきはしたが、あの言葉が退院後の私の
外に出ようとする更なるきっかけにはなった。
目が合った時、複雑なな顔をされても気にしない。
これが今出来る、最大の自分だから。

明日以降、少しでもで行く。これからも。

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