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文章の魔力は、いくら時代が移り変わっても変わらない。きっと形を、手段を変えて残り続ける。

 平成を生きた者の多くが、活字の衰退を目の当たりにしたことだろう。取次問題や、多くの構造的欠陥も相まって、出版不況は加速し、僕たちの憧れた「紙の宇宙」は一気にシュリンクしていった。そこにとどめを刺すように、アマゾン社が、封鎖することで守ってきた聖域を破壊して、本屋自体を駆逐しはじめた。強大なプラットフォームと、利益率の低いビジネスに耐えるフレームを持つ同社は、本だけではなく、同じように、構造的欠陥を持つ国内産業を破壊し始めた。

 2016年あたりだろうか。僕たちは、資本主義社会から、あらゆる歓待を受け、終わらぬ春を謳歌していた。リーマンから放たれた狩猟犬が、日経証券会社のIPO部隊になだれ込み、次々にIPOを主幹していった。ペインを解決する為ではなく、ただ、IPOすることが目的であったようにしか思えなかったが、そんなことはどうでもよかった。金がどこかに流れ込めば、何かが壊れる。何かが壊されれば、そこにまた僕たちの仕事が生まれる。破壊の現場に、死体と一緒にディールの欠片が散らばっている。まだ焦げ臭いそこに、何の恐れもない僕たちは飛び込んでいく。俗物だと揶揄されることも嬉しい、それほどに感覚が狂っていた。

 誰も彼もがリーマン・ショックで傷ついた体を癒やし、そればかりか肥やすことにばかり注力した日々だった。僕たちが偉そうに闊歩する地上数百メートルにあるフロアは、斯様に脆弱で、砂上の楼閣だと知ったのに、まったく逆に、歯止めをかけることなく資本で殴りつけるビジネスは加速していった。

 ある夜、東野圭吾の本が好きだという女と遊んだ。外見はとても美しいが、そもそも僕と生きてきた世界が全く違う人間だと、すぐに分かった。能力に見合わない高いプライドを隠しもせず、叶えられなかったすべてを男に投影して、心を満たす。3教科受験だけど、英語が得意。偏差値がいくらだった。一人25000円はする店に似合わないチープな話題で、全部どうでもよかったけれど、丁寧に頷いて、退屈な顔ひとつせずに聞いた。クライアントだと思えば何のことはない。

 朝の11時にホテルから出て、会社に行くからと言って別れた。ジャケットのシワが鬱陶しいなと思いながら、土曜の朝の倦怠感の中、気づけば書店に居た。本屋に来たのはどれくらいぶりか。いや、クライアントや知り合いの社長が本を出すたび、調子を合わせて購入した写真を撮る為に来た記憶はある。どの本もどこに行ったかわからない。

 ビジネス書、新刊、専門書。学部生の時に足繁く通った書店のままだ。いい意味で言えば、変わらない強さ、悪い意味で言えば、変われない弱さが、そこにある。古臭い価値観のまま、血を流しながらも生き続ける生き物の腹の中を、僕は革張りの靴の底を鳴らして楽しそうに歩く。書店員のおすすめを無視して、ハードカバーの本に目をやる。東野圭吾のコーナーを見て、女を思い出した。彼は、自分の作品がどのような人に、どのような目的で消費されているのかなど知らないだろうし、興味もないだろう。作家先生は楽しそうでいいこった、鼻で笑って通り過ぎた。

 「天童荒太、悼む人」

 赤いカバー、威圧感のある装丁に、自然と手が伸びた。彼の他の本は読んだことがある。どす黒い、人間の悪意、純粋な正義と殺意。それらを何百、何千ページに散りばめた呪いの文章だと記憶していた。読後感が最悪で、本を捨ててしまおうかとさえ思った。でもしなかった。できなかった。きっと、その本には凄まじい魔力があったのだろう。

 結局、僕は電子書籍を読む時代に、逆行するように重い紙の本を購入した。かばんの中に入れたノートパソコンとスターバックスのタンブラーを整理して、なんとか押し込む。そのまま、ビルに併設されたカフェのテラスでランチをとりながら、ついでに赤い本を開いた。久しぶりの紙の匂いに胸が高鳴り、ページをめくる手が段々と早くなる。タンブラーに手を伸ばす回数が減っていき、気づけば、残り数十ページで読み切る、というところまで店にいた。カフェ営業が終わるので、と声をかけられて慌てて本を閉じた。

 タクシーに乗って家に帰る間、本のことばかりを考えて、今から捕まる女を探すなんてことはすっかり頭から消えていた。

 シャワーを浴びて、コーヒーを淹れたあと、パスタを雑に一握り鍋に放り込んだ。レトルトの、安っぽいけれど、大好きな夜飯を頬張る。放心状態のようだった。忘れていた、失われていた何かが、本の中にあったのだろうか。僕は、続きを読むことをためらった。読み始めれば、終わりが来てしまう。主人公は一体何を考え、どこへ向かうのか。家族は一体、彼を止めるのか、背中を押すのか。ソファーに座り潜考する。

 ついには諦めて、赤い本を開く。一枚、一枚とページをめくる。静かな部屋に、新しい本がもつ、独特の強さととっつきにくさから発せられる音だけが響く。意図的にゆっくりと読み進み、物語の最後を知った僕は、本を机に置き、ハードカバーを撫で付けた。2000円もしないそれに、ただならない価値を感じていたことを記憶している。そして、数千億円のうちのいくらかの分前をもらう為に人の命に等しいものを奪っていく仕事を、ずいぶん浅ましく、価値のないものだとも思った。

 「文章の魔力は、いくら時代が移り変わっても変わらない。きっと形を、手段を変えて残り続ける」

 自然と口にした。誰かが言わせたように。また、僕は本を買うだろう。アマゾンがすべてを壊しても、それに僕が加担しても、それでもどこかに残された紙の本を、きっと探し出して、僕は手に入れるだろう。狂気に取り憑かれたように。

お気持ちだけで結構です。ありがとうございます。