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スターバックスコーヒーと京都大学

 高校生の頃、はじめてスターバックスコーヒーに入店した時、あまりの恐怖に膝が震えたことを思い出す。出ていけシャバガキが、そう言わんばかりの笑顔と明瞭な「ご注文は」の声に、為す術もなくモカフラペチーノを頼み、甘いものが嫌いな僕は涙を流しながら砂糖の塊を絶望と一緒に飲み込んでいった。何がグランデだよ、特大って書いておけ。春先、桜が、どうだ、と僕に凄むかのように咲き誇っていた。

 あの苦い記憶というのは、いつも僕の脳のどこか深いところを専有し、あるいは、沈着し、潜在的に、あらゆる好き・嫌いの意思決定に関わってきたように思う。平ったく言えば、僕はスターバックスコーヒーが嫌いだったし、それに近い業態のコーヒーチェーンも嫌いだった。

 ただ、コーヒー自体は好きだったから、高校時代、「自家焙煎珈琲」などの看板を街で見かけると、迷わず飛び込んだ。クセ以外ないジジイ、または、クセ以外ないジジイに耐えてきたメンタル最強ババア、そういった、RPGでいうと残りはボスしかいないという魔界で、レベル上げをするでも、アイテムを集めるでもなく、ひたすらに淀んだ空気の中で意味もなく雑魚敵を殺し続ける、魔物を超えし魔物、そんな化け物が、いつも僕を迎え入れた。

 「ウイス。高校の帰りか」。初対面だった。おそらく30歳後半か40代に入ったばかりという年齢のクセジジイが、いらっしゃいませの代わりに言った。いらっしゃいませって言え。

 「そうです」。僕が答えると、水を出し、笑顔でジジイが訊いた。

 「煙草吸う?」。吸わん。ジジイ、高校生は煙草吸わん。だいたい、制服着とる学生に煙草吸うか訊くとか脳内どうなっとるんや。どこの国の法律がこの店内に適用されているんか教えてくれ。

 それからというもの、暇ができると、その珈琲屋に足を運んだ。スルメイカのように、噛むたびに味が深まるジジイに魅了されていたのかもしれない。

 寒すぎて指が取れるかと思ったセンター試験が終わった日にも店に寄った。センター試験が終わったと伝えると、ジジイは笑顔で、「センター試験ってなんや」、と言った。ジジイにセンター試験は要らない。勉強というものは、彼にとって人生における雑味でしかないのだ。彼は限りなく透明に近いクリアでシンプルな人間だ。偏差値35の高校に入って、教師と殴り合いの喧嘩をして退学、一念発起し親の金で海外へ。そして、農場で働いたり、マリファナを吸ったり、コーヒーを栽培したり、マリファナを吸ったりして生きてきた。

 「京大に入ったら、ええことあるんか」。ずしりと刺さる言葉だ。これほどまでに僕の心の深くまで届いた言葉はなかった。西きょうじが、ポレポレ最高!と言うたび、僕は乾いた笑いを返し、荻野が数学を無視してドラクエの話をするたび、ファイナルファンタジー派なんじゃボケとキレ散らかしてきた。僕の心に続く一本道には、かくも強固で堅牢な迎撃システムが張り巡らされていた。しかし、クセジジイの一言は、あまりにも直接的に僕の感情を揺さぶった。

 その日から、僕はその珈琲屋はおろか、スターバックスコーヒーにも行かなくなった。いや、行けなくなったという方が正しいかもしれない。一方で、受験は成功だった。大学に入学した僕は、ああ、勝手に女が寄ってくるのだろう。黒髪で淑やかな女性が僕の周囲を囲み、「どうか娶って下さいな」と申し出る日々を夢想した。もちろん、そんな日々はなかった。

 夢のような日々がないどころか、同じクラスの男に誘われて行ったテニサー新歓の二次会で、カラオケに行った時、この世界に地獄があることを知った。級友は、野良犬くらい毛先が死んだ茶髪の上回生のおっぱいを揉みしだきながら Mr.Childrenのtomorrow never knowsを熱唱した。かなり古い歌だが、いい曲だった。

 「果てしない闇の向こうに手を伸ばそう」サビの歌詞だ。僕の隣で彼は、真っ暗な闇の向こうにある、おっぱいに手を伸ばした。tomorrow never knows、明日は飲みすぎて記憶がないだろう。家に帰りたい、そう思ったと同時に僕は席を立ち、カスみたいな空間から逃げ出した。真夜中の百万遍で、女の肩を抱き、歩くやつらの肩をかすめる。Kyoto Universityの灰色のスウェットを履いているやつが死ぬほど嫌いだった。ジュラ紀なら、ティラノサウルスに食われているくらい無防備だった。でも、不幸なことに、世は平成だった。ティラノサウルスはいない。いや、やつらこそが、ティラノサウルスなのかもしれない。

 あれから、とてつもない時間が経過し、僕はおとなになった。そして、様々なことを経験し、逮捕された。仕事を失ったのに、激務から解放された喜びの方がまさっていた。何もかも、新しくやり直そう。そう思った。

 12月16日、雪が降りそうなほど寒い。あと一ヶ月ほどでセンター試験がはじまる時期だ。どおりで寒い。僕の脳裏にクセジジイが浮かぶ。たぶん死んでいるだろうし、生きていて店舗を経営し続けていたとしても全然訪店したいとは思わなかった。

 「スターバックスコーヒー、スターバックスコーヒーに行こう」。僕は灰色の空を見て呟いた。急いで身支度をし、家を出る。ロードバイクは今日もセクシーだ。カーボンのボディに頬ずりする。家人が見ていたら本格的に狂ったと思ったことだろう。大丈夫、僕はちょっとカーボンが好きなだけだ。

 一こぎするたびに、従順に加速するクリテリウムレース専用マシンに惚れ惚れとする。速度があがると、顔にあたる風は冷たさをました。ああ、冷たい。思わず口にする。餃子屋の前に居た外国人が「ゴメンナサイ」と言う。謝らなくてもいい。この冷たさは、地球の地軸が傾いているせいだし、オーストラリアは夏だ。

 スターバックスコーヒーの前に高いロードバイクを停める。電動ママチャリが数台見える。僕はそれを、ヤクザ自転車と呼んでいる。道路交通法という言葉自体を知らない蛮族が駆るものだからだ。逆走、無灯火、歩道全力ダッシュ当たり前。店舗から飛び出してきては、車に迷惑をかけ、逆ギレする。ヤクザとしか言いようがない。ここがジュラ紀なら、あいつらは間違いなくティラノサウルスだろう。絶滅するまで笑っていればいいさ。

 「粉にしますか?」。大学生らしき店員が、僕が渡したケニアの豆を見て言った。粉にして下さい。と、シンプルに答えた。会計を済ませ、右でお待ち下さいと指示されたので、右で待っていると、左ですと訂正された。お前から見たら右なんだろうな。僕もおかしいと思った。トイレしかない。仮にトイレからグラインドされた豆が出てきたら、僕はそれをゴミ箱に捨てただろう。

 結局、5分ほど待って、粉になったケニアを手にした。復路でも、餃子屋の前には外国人が居た。店員のようだった。煙草を吸っている。かなりうまそうに吸うやつらだった。そいつらの後ろに見えないホーチミンの街角が浮かんだ。フォーが食べたい。

 家に帰り、ドリッパーにフィルターを載せ、タンブラーにそのままコーヒーを落とした。手順を守り、適温で、ゆっくりと。あの日の記憶を払拭するように。

 出来上がった珈琲は美しい色をしていた。すこし油の浮いた表面が色っぽい。湯気がたつタンブラーを傾ける。僕の口腔内に突入したそれは、一瞬で舌の端に備わった味蕾を駆け抜け、脳に、味を伝えた。


 「まっず。死ねや」

 僕の脳が、言語を紡ぎ出すまで、1秒もかからなかった。ちなみにイライラしたから題名は適当につけた。変えるつもりもないし、そもそもこのエントリに誤字脱字があったり、おかしな箇所があっても絶対に修正しない。僕は今、令和のティラノサウルスなのだから。

お気持ちだけで結構です。ありがとうございます。