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『ロリータ』

僕たちはナボコフの『ロリータ』を次に読む本として選んだ。

ナボコフは1899年生まれ、1977年に亡くなった。
帝政ロシアで生まれて、ヨーロッパ、アメリカと亡命した作家。昆虫に詳しい。チェス・プロブレム作家。
貴族の家に生まれたナボコフは、20歳ごろロシア革命で西欧へ亡命。イギリスやドイツのベルリンで過ごしていた。
父親の暗殺からフランスのパリへ。このころから詩や小説を書いていた。その後最終的に行き着いたアメリカで1945年帰化。1955年『ロリータ』を書いた。
(以上評伝はすべてWikipediaより。)

主人公のハンバート・ハンバートは自身のロシアからの亡命生活に重なるところもある。彼はヨーロッパからアメリカにやってくる。
しかしそこの悲哀は語られない。あくまでもあっさりと、アメリカンに、コミカルに語られる。
とにかく展開が突然で極端。主人公のハンバート・ハンバートは自分の奥さんを殺そうかどうしようか考え始めるし、殺さなくても事故で亡くなっちゃったりする。展開が目まぐるしく漫画的なサスペンス。
自身の亡命生活における深い苦悩を文学で覆い隠すように仕立て上げ、その傷を癒したのだろうか。

男性の欲情には二種類あると思う。すなわち、女性を人形として認識して犯すタイプと、女性の力によって男性が破壊され犯されるタイプだ。これらはいわゆるサド、マゾと言っても良いだろう。
ニンフェットというのは力のない子供へのサディスティックな感情を美的なころもで包んだような言葉だ。まるで妖精と戯れたい自分の無垢なあり方をそのまま表現したかのようだが、実態としては虚飾にすぎない。単に成人男性が未成年女子と性交したという物語だ。

とにかく自分は性にまみれていないとか、自分はセクシャルじゃないと言い訳する。その否認、「犯罪的性的異常者ではない」(p.265)という主張をH・H自身がするということには、そんな異常者ではない自分だからこそ少女に近づけるし、その近接性によって性的な興奮を得られるとする狡猾な手口が潜んでいる感触すらある。
おじいさま方は実に呑気なものだ。このようにどうしようもなく言い訳という名の論理を自動的に組み立てて、なんとか自分の性的渇望を抑え込もうと躍起になる人が、現実世界にもいるだろうに。(しかしこの作品の影響で小児性愛の存在を現代社会の人々に意識し始めさせたところは絶対あるはずだ。このような形がその存在の周知にとって望ましい形だったのかは議論すべきではないか。)

自分は異常者ではないと否認の論理を組み立てて少女に近づけば近づくほど渇望は止まらないので、そもそも少女に近づかない、トリガーから離れるということが必要だというのが依存症の定石なのだが、単なる「少女趣味」として捉えられることもあっただろう時代の小説だろうし、依存症との関連性からは捉えられない。

最後に。ロリータが演劇嫌いなのは、日々ハンバートとの日常自体が演劇だから、疲れてしまうからだろう。ロリータのハンバートへの対応はすべて演技だと見て取ると、どう読めるのだろうか。再読してみよう。


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