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梅氏は「いやだと言っても良い」と言った

私のいた上野毛の多摩美は学部長に詩人の鈴木志郎康、教授に映像作家の萩原朔美、講師に写真家・中華奄美文化研究家の島尾伸三がいて逸材揃いだった。大学生活で私は自我を意識した。しかしそれ以前に本当の自分の自我が作られたのは高校の時だったと最近思い直した。東京の大学生活では汚れを知ったと言った方が正しい。

私の高校のクラスの副担の梅沢先生は生徒から梅氏と呼ばれていた。朝出欠をとる時、いつも一限の授業に来ない同級生(大人びていたので彼氏がいた)がいたのだが、梅氏はいつも怒らずに「水上は今日も男の家から出たくないようだ」と愚痴をこぼし皆の笑いを誘っていた。こうあらねばならない、というものに一番反抗していたのは梅氏だった。

梅氏は現国の教師だった。授業開始の10分間、授業とは関係のない自分の思想を生徒の前で語った。「梅氏の場合」というプリントも配った。

梅氏は貧しさから非行に走り犯罪に手を染めるこども、授業に出ずバイトに精を出す生徒との会話などを私達に伝えた。私達はただの県立高校の生徒にすぎなかったがそれでも梅氏は「君たちはこの先の人生の中でいろんな事情で身動きが取れず苦しんでいる友人がいる事を覚えておいてください」と口を酸っぱくして言った。

また選挙が近づいていたある日、梅氏は「白票を投じる事に後ろめたさを感じる必要は無い」と言った。その時私はまだ選挙権はなかったけど白票も立派な意思表示であるという事は当時の私には驚きだった。学校では自分の意見や回答を正確に答えることが正しいという雰囲気のなかで、実社会では「答えられない」ということが受け入れられる事もあるのか、と安心感のようなものを感じた。

学校はアルバイトが禁止だったが私はある日の学校の作文スピーチ大会で「学生がアルバイトをするべき理由」というテーマで話し賞を貰った。読みたくても学校の図書館に無い本は司書の先生が県立図書館の本を取り寄せてくれたりした。当時の私は夜の校舎で合唱部に遊びに行きみんなと音楽室で夕飯を作り注意された事もあったがすべては表向きなことだった。(あの時の私はなぜか三つの文化部に所属し、普段交流のない人達との交流を楽しんでいた)建前上禁止されている事でも声をあげれば大人は学生に寄り添ってくれた。

大学を経て社会人になって不満は予想以上に増えていくし、気にくわないことも多い。日本社会の中でストレスは確かにあったが自分の意見が言えない、ということはあまりなかった。それが日本のゆるく大きな構造そのもので、自分は単なるガス抜きをさせられているだけだとしても。

今私が暮らす香港では、民主派議員は国家安全法のふるいにかけられ出馬すらしていない。今の香港は市民から投票率の低さを嘆く声は出てこない。白票どころではない。

当たり前が消失した社会に住む人は香港以外にもたくさんいる。自分の心の中の自由は消失していないと確信しているのでまだ大丈夫かなと思っているけど、少なくともあの時梅氏が言った「いやだ」と言ってもいい社会には生きていない。現実にはそれを踏まえてどう生きていくかなのである。世界は想像よりも遥かに刺激的だったんだよと高校生の自分に言ってあげたい。

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