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俳句の鑑賞文を考へる

 こんにちは。彼方ひらくです。ヘッダーの写真はマヌルネコですが、特に意味はありません。考えごとしてるような風で多分何も考えてないのが気に入っているだけです。

はじめに

 俳句をやっている皆さん、鑑賞文を書いたことがありますか? そもそも鑑賞文って一体なんなんでしょうね。句会の選評と何がちがうんでしょう。有名な鑑賞文ってあるんでしょうか。
 僕はこの1年で40本くらいの鑑賞文を書きました。この記事では今よりもっと初心者だった頃の自分に説明するつもりで、鑑賞文の書き方について考えていきます。
 以後、便宜上「と思います」のような書き方を控えて断定していきますが、正しい鑑賞文の定義などきっと存在しません。予めご了承ください。


選評と鑑賞文はべつもの

 選評と鑑賞文は別のものですが、内容がよく似ています。違いを言葉で説明できる人はあまりいないのではないでしょうか。なにせ正解がありません。違いを考えていきましょう。

①発表の場がちがう

【選評の場合】
 句会の中で発表されます。結社の句会の場合、結社誌に記録が載ることがあるかもしれませんが、基本的に句会はクローズドな場です。

【鑑賞文の場合】
 結社誌、書店で売られている「俳句」(角川文化振興財団)・俳句界(文學の森)・「俳句四季」(東京四季出版)などのいわゆる総合誌、そのほか同人誌に掲載されていることもあれば、Web上で個人的に発表されているものもあります。
 僕の場合は自分が参画さんかくしている紙の同人誌『ASYLアジール』で発表、Web上ではこのnoteなどで公表しています。夏井いつき先生の俳句の鑑賞文を募集している『夏井いつき読本』に投稿したものがWeb上で掲載されることもあります(※トップページの「コンテンツ」→「読みもの詠みもの」→「夏井いつき読本」)。

②発表者がちがう

【選評の場合】
 句会参加者です。結社の句会の場合は指導者(主宰や幹部)のみに限られ、一般会員は話さない場合が多々あります。俳句大会などで選者がおおやけに述べるものは、選評よりも「講評」と呼んだ方が適しているでしょう。

【鑑賞文の場合】
 限定されていません。結社Aの会員が、会ったことのない結社Zの会員の句について書くこともあります。僕は結社に入っていませんが、自由に書いています。

③発表の手段がちがう

【選評の場合】
 対面句会なら口頭、ネット句会なら文章です。

【鑑賞文の場合】
 文章です。

④目的がちがう

【選評の場合】
 句会でその句を選んだ理由を説明するため。自分の句について意見をもらうために、代わりに他者の句の意見を述べるとも言えるかもしれません(いずれも自分のためになりますが)。

【鑑賞文の場合】
 クローズアップしたいと思って選んだ句の魅力を語るため。鑑賞文の方がより自主的です。

 違いはこんなところでしょうか。なお、鑑賞文を「句評」と呼ぶことがありますが、鑑賞文は良いと思った句を選んで肯定的な内容で書かれているのに比べて、句評は肯定的な内容も批判的な内容も含みます。

作者が知りたいこと

 僕は「選評」は自分が言いたいことよりも、作者が知りたいであろうことを述べるべきだと考えます。
 高浜虚子でさえ、自分の句は自分では分からないと語っていたそうです。何が分からないかと言えば、第一に自分の句で伝えたいことが伝わるのかどうか、が分からないですよね。
 従来の結社の対面句会では、選ばれなかった句に関しては意見をもらえないことが多く、選ばれない理由を考えることで足りないものを知りなさいといったストイックな姿勢の句会が多いです。
 ネット句会の場合は選ばなかった句に対する「選外評」を書いたり読んだりする機会が多いので、初心者に優しいと言えるでしょう。選外評で「○○の部分が分かりません」と書くと一見突き放しているようですが、初心者はまさか読者が句を読んだだけでは伝わらないとは思っていないので、伝わらないという事実を知るだけでも、大きな成果を得られるのではないでしょうか(どこが分からないかは選評に必ず書かなければなりません)。
 ベテランはベテランで、伝わりにくさというリスクをとることで、より深みのある句を投句しますから、いずれにしても句を読んだだけで内容が伝わるか伝わらないかを作者に伝えることは、とても大切です。
 作者が是非を知りたいことは、その他にも、語順(情報の提出順序、切れの有無、位置)、切れ字の使用の有無、助詞の選択、暗喩と明喩の選択、自動詞と他動詞の選択、作中人物の視点などなど多岐にわたります。自分の選択は正しかったのだろうか?と作者は常に考えているので、作者の迷ったであろう元の選択肢を想定するのも大切です。初心者の場合、そもそも句を作るときに選択肢が思いつかなかったのかもしれません。
 作者も気づかなかった句の良さを引き出せれば、あるいは作者の予期しなかった欠点を敬意を持って指摘できればもっと良いですが、読み込みすぎて句と関係ないことをあれこれ付け足してしまい、妄想に近くなってしまうのは危険です。その妄想に第三者が感心するのはもっと危険です。
 妄想を是とする考え方もあるでしょうが、いずれにしても句から読み取れるだけ読み取るのではなく、どこまで読み取るのかを自分で線引きして、決めなければなりません。

自分が書きたいこと

 対して、「鑑賞文」は自分だからこそ感じた句の魅力を書くものだと考えます。言い換えれば自分が書きたいことを書くわけですが、なんでもいいというわけでもありません。
 わかりきったこと、誰でも感じることを書くのはあまり意味がないです。しかし自分の鑑賞が類想なのかということは自分にはなかなか分からないのに、句会のように評価はつけてもらえませんから、鑑賞文の執筆は、ある意味で句作より孤独で、勇気が必要なものと言えるでしょう。だからこそやりがいもあります。
 先ほども述べましたが、句会中の「選評」が「鑑賞文」に近い内容になることは多々あるものの、「鑑賞文」はあくまで句会の外にあるということが最も大きな特徴です。

鑑賞文の執筆で大切なこと

褒めない

 俳句でよく言われる言葉に「○○と書くのではなく、読者が○○と感じるように書くべき」というのがありますが、鑑賞文も句を直接的に褒めるべきではありません。
 俳句そのものが語らず、省略の美を求めていくのとは逆方向に、句の魅力を文章でつまびらかにしていくのが鑑賞のわざと言えます。句作がプレゼントの用意、包装だとすれば、鑑賞文の執筆はプレゼントの中身の確認と感動を伝えることなのです。

結論から書く

 ビジネス文書の要領ですが、文章は結論から書くと贅肉をそぎ落とすことができます。とはいえ、過程なしに結論を導くことはできないので、僕は鑑賞文はいつも一通りをざっと書いてから、ほとんど消してしまいます。残った部分を核に、改めて書き始めるのです。
 特に、「一読して思うのは」などと前置きしたり、「〇〇が△△ということ、それはつまり」のように句の中身を繰り返すのは、筆者がその句に向き合うための準備にすぎないので、鑑賞文を作品として読者に見せるときには意味を持ちません。子どもの頃に読書感想文の文字数稼ぎをしたのを思い出しますね。『プレバト!』で梅沢富美男さんが司会の浜田さんに意見を聞かれたとき、いちいち句を詠み上げることがありますが、あれは考える時間を稼いでいるのでしょう。
 文章を一度書いてから消すという作業は、慣れてくると頭の中だけでできるようになります。もっと慣れると、無意識にできるようになります。俳句の実作でも、無意識に類想を除外し、重複する言葉を省略しますが、やっていることはよく似ています。
 結論から書くことによって新しい観点が得られ、自分にとっての真の結論が彫琢ちょうたくされるかもしれません。書いていくからこそ気づくというのが、鑑賞文の醍醐味だいごみでもあります。

指示語・接続詞・体言止めは控えめに

 いわゆる「こそあど」などの指示語、「そして」「つまり」などの接続詞、名詞などで文を結ぶ体言止めは控えめにするのをお勧めします。鑑賞文では句の魅力を語るためについつい強調のために多用したくなりますが、
「したがって、このように〇〇が△△ということ、それはつまり◇◇。」
が良い文章だと錯覚するのは、季重なりや三段切れが格好いいという感覚と大差ありません。指示語も接続詞も体言止めも、季重なりのように必然性を持ち、つ、ここぞというときの必殺技のように扱うと力を発揮できそうです。

読者が知らないことを書く

 俳句は短いので、予備知識がなくしては読み取れない作品が少なくありません。現代の生活からは忘れ去られている絶滅寸前季語(例:「蚊帳かや」「菊枕」「狸汁」)が使われることもあり、名前を聞いたことがあればまだよい方で、文庫版の歳時記には載っていない季語もあります。お祭りなどの行事を中心として、日本の各地方にしか存在しない地貌ちぼう季語も多いですよね(例:「会陽ゑやう」「おしあな」「流氷」)。季語に限らず、地名などの固有名詞、古語、俳句や短歌特有の言葉などもあります(例:「ありぬ」「ひびかふ」「まぶしむ」「峡空かひぞら」他)。
 対面句会は選句の時間が短いので、知らない言葉があれば知らないで済まされてしまいがちですが、ネット句会は大抵、投句〆切から選句〆切までが長いので、ネットで調べる時間が充分にあります。検索ツールやAIの進化もあり、今後はますます調べることが容易になっていくでしょう。
 では、鑑賞文において、知識的なことは書くべきなのでしょうか。読者の代わりに調べる意味はあるのでしょうか。僕は価値があると考えています。読者は全ての句を完璧に理解しようとはしませんから、私たちが選んだ句の魅力を知ってもらうためには、労を惜しんではいけません。読者に『ああ、そうだったのか』と思わせたらしめたものです。読者の知識を広げることも鑑賞文の役割の一つです。
 また、句の時代背景や作者の当時の状況を書き残しておくことは大切ではないでしょうか。例えば正岡子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」を鑑賞するときのように。正岡子規ならば文献に残っていますが、市井の俳人は忘れ去られていきます。彼らを記録に残すという意味でも、鑑賞文には価値があります。
 句の価値が誰かの個人的な事情や、限られた地域の文化・自然に依拠することがあるのは俳句の宿命でもあるかもしれません。僕は瀬戸内の人間ですが、北海道の句会で網走あばしり出身の方が、沿岸に流氷が押し寄せると陸より暖かい海が塞がってますます冷え込むから、子どものころ嫌で嫌で仕方なかったという話を笑いながらされるのを聞いたとき、北海道に来て良かったと思いました。高知で龍馬忌という季語の句を初めて見たときも、北アルプスで駒草や雷鳥の実物を見たときもそうでした。
 忌日季語や地貌季語についての知識は句の理解の助けとなるわけですから、読者の知識が増えることで、読者は他の句を読み解く力をつちかうことができます。句会の選評がアドバイスの互助的なものだとすれば、鑑賞文は自己研鑽けんさんであり、同時に情報提供のボランティア的な側面もあるのでしょう。知識や体験が増えれば増えるほど、俳句は楽しくなります。 

新規性

 学術論文では必ず新規性というのもが求められるそうです。俳句でも類想は忌避きひされますし、選者がとりわけ注目するのは、これまで見たことのない表現、取り合わせ、把握です。
 俳句は作者が記念のために詠むこともあるので、類想であろうと他の人にとっては意味不明であろうと、個人的に価値がある句なら構わないのでしょうが、作品として発表するとき、句集に載せるときは除かれるはずです(どうしても入れたければ、前書きをつけたり、題名付きの連作で分かりやすくしたりするのでしょう)。
 鑑賞文は一般に公開するのが目的なので、読者が新たな気づきを得ることができる内容が望ましいはずです。考え方は同じでも、立場が違うだけで句の見え方は異なってきます。句会の選評を聞いていても意外な発見があるものですが、時間を掛けて書く鑑賞文では、自然と筆者の個性が表れてくるものです。

おわりに

 僕が冒頭で問いかけた「有名な鑑賞文ってあるんでしょうか。」を覚えていらっしゃるでしょうか。残念ながら俳句のように、あるいは小説のように、名文として広く読み継がれている鑑賞文を僕は知りません。俳句が主役で、鑑賞文は俳句を引き立てるための脇役だからなのでしょう。

 僕は2022年に亡くなった清水哲男さんの『増殖する俳句歳時記』というWebサイトの、ある鑑賞文が忘れられません。

July 27 1997
花火師か真昼の磧歩きをり  矢島渚男
 磧は「かわら(河原)」。今夜花火大会の行なわれる炎熱の河原で立ち働く男たち。花火師を詠んだ句は珍しい。中学三年のとき、父が花火屋に就職し、私たち一家は花火屋の寮に住むことになった。だから、花火や花火師についての多少の知識はある。指の一本や二本欠けていなければ花火師じゃない。そんな気風が残っていた時代だった。工場で事故が起きるたびに、必ずといっていいほど誰かが死んだ。花火大会の朝は、みんな三時起きだった。今でも打ち上げ花火を見ると、下で働く男たちのことが、まず気になってしまう。(清水哲男)

増殖する俳句歳時記

 元になった俳句以上に、この文章が今でも胸に迫ってくるのです。


おわり

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