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薔薇の庭 6

 もう悲鳴みたいな、切実な声だった。
 連れの女性は私を抱き起してくれて、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝り続ける。彼女は私に何もしていないのに。
 こんなおかしなことって。
 地下鉄の入り口の、つめたい黄色いタイルの壁を伝って、ようやく立ち上がった。
 怒りにぶるぶると自分の指先が震えているのも、自分の声も震えているのもわかった。
 「謝って下さい。大切なものを踏みつけにして。わざとなんでしょう?」
 かろうじて、それだけの言葉を振り絞った。
 痛みは感じない。怒りがすべての感覚を支配しているようだ。
 「謝りましたよ。ごめんなさいって。でもあなたたちは私に謝ってくれなかったけどね!自分達だけズルして得したことは!」
 「愛ちゃん!」
 叫んだ連れの女性は、もう真っ白な顔色になっていた。
 もう一人の連れが来て、首をふった。
 「無理だよ、私たちと違うんだよ、自分のしてる事がどういう風に思われるか、わかんないんだから、あの子」
 「私たちの連れがすみませんでした。ケガは大丈夫ですか?」
 「あの人、なんなんですか?!」
 自分の声が裏返ったように聞こえる。
 そこへ、もう一人駆けつけてきたのは。さきほど駅の手前で分かれて、手を振って見送った友人だった。
 「さきちゃん、ケガしてない!?大丈夫??」
 今まで聞いたことのない、驚くほど低い声で尋ねられた。
 その声で、逆に私自身はすこし落ち着いたようだ。
 「ああ、ありがとう心配してくれて。かすり傷だから平気だよ、いきなりでびっくりして転んだだけ」
 自分で確認したが、ストッキングが破れて擦り傷になってはいるものの、大して血などは出ていない。明日になって打ち身の青あざが出る程度だろう。
 手の方も、転んだ時にとっさに手をついた擦り傷だけで、ブレスレットが割れたわりに切り傷一つできていなかった。
 一番大きかった目玉のパーツが砕けたように割れていたのに、運が良かった。
 体の点検をした後、急に恥ずかしさが増して来た。
 大声を出したものだから、周囲が取り巻いて様子を見ている。カップルやグループでひそひそ話してる人たちもいた。傍から見たら、ただ不可抗力で押されて転んだだけのように見えたかも知れない。顔が赤くなるのが自分でわかる。
 だが、この無礼で乱暴な真似をした女をそのまま許す気にはなれない。
 どうしたって。
 「いくらなんでも、一歩間違えて私が大けがしていたらあなた犯罪者なんですよ」
 そう言うと、カバンをたたきつけて来た女は少したじろいだ。
 私がそんな風に言い返すとは思っていなかったようだ。
 なんだろう、他人に関して徹底的に無頓着な女だった。
 連れの子たちの態度をみても、今までさんざん迷惑をかけられてきたのだろう。どうしようもない状況じゃなければ、付き合いたくないだろうな。だがそんな彼女たちも、今は私の言葉におろおろしている。
 「私たちはちゃんとルールを守って行動しただけで、あなたは不愉快だったかも知れませんが、あなたの感情には私たちの責任は何もないですよ。次は予約して来店すればよかっただけですよね」
 女は、自分が不利な立場だということだけは理解できたようだ。
 先ほどまでの、自分が絶対に正しいんだ、と言わんばかりの傲岸な様子から落ち着きのない不安定なそぶりになる。
 「ごめんなさい、そうでした、はい、ごめんなさい、突き飛ばしたことは本当にごめんなさい」
 突き飛ばされて痛かったよりも。
 悔しくてつらくてこんなに腹が立っているのは、友人がわざわざ私に作ってくれた素敵なバラの花束を、この女に踏みにじられたことだった。
 今日一日の素敵な思い出が。友人のお祖母さんへの思いまでもがこの女に汚されたように思えてならない。
 「さきちゃん、花束はまた作ってあげる。今日はこれ、私が持って帰るから」
 静かな声で友人が花を拾い上げた。
 踏んだだけで、どうして?と言いたくなるほど、バラは枝が折れて、花が潰れていた。綺麗なセロファンとカラーペーパー、リボンは、土で茶色く汚れてしまっていた。
 あくまで冗談だったけれど。
 初めての、生まれて初めてのバラの花のプレゼント。
 涙が出そうだ。いや、もうにじんでしまってる。
 「ありがとう・・・でも、電車の時間大丈夫なの?」
 友人の思いやりに胸と言葉がつまる。
 「連絡するから大丈夫。今日は一緒に帰ろう。送って行く」
 「え、だって路線も降りる駅も違う・・・」
 「いいよ、気にしないで」
 無傷だった方の腕に手をかけて、友人は女に向けて言った。
 「二度とあなたと会わずに済みますように。お互いの為に」
 よく通る声で。
 そして周囲が凍り付くような恐ろしい冷たさで。
 言われた方の、暴力女の顔もまた紙みたいに真っ白に見えた。
 もう夕暮れ時、地下鉄入口の暗い蛍光灯の明かりのせいかも知れなかったけれど。
 私は、こんな友人の声を聴くのは初めてだった。
 それだけ言うと、友人は私と腕を組んだまま、ゆっくり地下鉄の階段を下りた。

 

 
  


 

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