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ほのかな明かりの灯る窓から 2.

 小さなおじいさんは、ビルの階段を上ってどこかへ行ってしまった。
 戻って来るのを待つ間、正直なところ、晃は困っていた。
 知らない場所に行きついたあげく、知らない人と会話して、しかもその人としばらく一緒に居なければならなくなってしまった事に対して。
 けれども、晃は「いやいいです、自分で行きます」と言い出せなかった。
  親以外の、大人の言葉に逆らった事がなかったからと、知らない道を通るのが、今になって怖くなって来てしまったからだ。
 お稲荷さんの脇道を入った時には、自信満々だったのだけれど。
 あれは、お母さんに対する怒りのエネルギーのせいもあったのかも。

 道を引き返すのも同じだ、結局知らない道を通らなければならない。
 それを想像すると、この親切そうなおじいさんと一緒に行く方がマシに思えた。川沿いの公園まで出てしまえば、そこからはもう一人でも大丈夫だし。川だけ見ればすぐに帰ってくればいいんだから。
 心の中で覚悟を決めて、晃は庭を見つめた。
 濃い緑の夾竹桃、たくさんの濃いピンクの花をつけている山茶花、赤い椿、寒そうに葉を落としている桜。
 他にも名前はわからないが大きな葉を茂らせている木々。
 庭に地植えされている葉牡丹、マーガレットみたいな白い花、プランターには色とりどりのビオラ。他にも鉢植えや地植えで知らない花々が真冬にも関わらずとりどりに咲いていた。
 最初に見かけた時には、狭くて小さい庭だと思えたけれど、意外にたくさんの種類の植物が茂っていた。木々が枝を広げていられるだけのスペースがあった。
 
 右奥に木製のガーデンテーブルとベンチが置かれている。
 そこにおじいさんのものだろう、鋏などの園芸用の道具が納められた持ち手のついた箱が載せられていた。青いホースがリールに巻かれている。
 晃は庭の中に足を踏み入れてみた。
 さっき出くわした板塀の方角には大きな物置があって、その先の様子が見えない。
 庭をぐるりと取り囲むように花壇が作られている。L字型に木々が植えられていて、反対側はハンギングバスケットがかけられたラティスの塀になっていた。
 どうやらこの庭からはどこへも出られないらしい。
 通り道らしきものがどこにも見当たらない。
 出入り口は、晃がさっき歩いてきた古いビルの開口部だけで、まるで個人の家の庭みたいだった。
 おかしな感じだった。ビル自体は雑居ビルだった筈だ。
 ビルの中に入った時、入口の案内板に店や事務所の名前が刻まれていたし、廊下にはいくつか置き看板もあった。
 こういうビルに庭があるのが不思議だった。
 晃が見たことがあるのはカフェやレストランのオープンテラスだとか、駐車場や駐輪場になっているものだ。お客さんが使うことが前提になっていて、どこからでも入れて出られる場所。
 でも、ここはどうやらそうじゃなさそう。おじいさんの家の庭、という感じだ。
 さっきおじいさんは「このビルはみんなの通り道」だと言っていた。
 じゃあ、このビルを通ってどこかへ行く人は多いってことだ。
 しかしさっきの入り口からこの庭までは一本の廊下があっただけで、他に曲がっていく通路も、扉もなかった。
 ただ、おじいさんの使った階段があるだけだ。
 階段の向こう側に、通路があるのかも知れないな、そちらは見ていなかったから。
 
 晃がビルの中に戻ってみるとおじいさんが階段を下りて来た。
 さっき着ていたフリースではなくて、手に帽子とコートを持っている。
 なんだか大昔の外国映画に出て来る人みたい。
 「待ったかな?ごめんよ。じゃあ行こう」
 おじいさんはそう言って晃をうながした。
 「この階段をおりていくんだよ」
 そう言われて驚いたことに、地下へ続く階段があることに気づいた。
 下り階段は、上り階段の後ろ側から階下へ降りて行くようになっていた。
 さっきの廊下側からは壁になっていて見えなかったのだった。
 下り階段の入り口に回り込むと、奥行きのある廊下が続いていて、そちらは窓からの光が差し込み明るかった。扉が並んで看板がかかっているのが見えた。
 「こっちの廊下を通って行くともう一か所出口はあるんだけど、そっちはこのビルの関係者しか通れないからね、管理人がいてね。君はだめなんだよ」
 そう言われて帽子を被りコートを羽織ったおじいさんの後ろから階段を下りて行く。

 階段の入り口こそ暗かったものの、下りきって地下通路に出てしまえばそうでもなかった。黄色っぽい照明があたりを照らしている。
 地下鉄の駅にあるような黄色いタイルが壁前面に貼られているので、明かりもその色になじんでいるのかもしれない。
 外の庭が明るかったから、目が慣れていなかったんだろうな。
 「ここを通ると、雨の日なんか傘をささなくていいからラクでしょう。だから雨の時は結構な人通りなんだよ」
 しばらく歩いていくと、通路の脇に階段があった。
 階段の上部にパネルがはられていてビルの名前と赤い矢印が記されていた。
 「ここを上がると○○にいくには便利だけどね。知らないよね?」
 晃は小さくうなずく。○○というのがどこか見当もつかない。
 この地下通路からは繁華街のあちらこちらへ出られるのだという。
 地上の細くて入り組んだ路地裏を通るよりもよっぽど歩きやすいんだとおじいさんは自慢げに言った。それに雨風を防いでくれる上に冬は暖かいし、夏は涼しい、まあ今は真冬だからあれだけど外よりは暖かいんだよ、それにしても今日は晴れで風もないから暖かかったねぇ、こんな日は庭仕事も楽でいいよ、でも川沿いは風が冷たいかも知れないねぇ、君は寒くないかい?などとあれこれおしゃべりしてくれて、晃は大体「はい」とうなずくだけで良かったので、かなり気が楽になり、おじいさんにも打ち解けて来た。
 おじいさんの言う通り、途中で左右に伸びる脇道があったりした。
 ビルへと続くらしいエレベーターも幾つかあった。
 ところどころで、ビルからの物音が聞こえたり階段から強めの風が吹き込むこともあった。
 あれは空調システムだね、とか駐車場の音だね、換気口だよ、とかその都度おじいさんが教えてくれる。

 まっすぐに伸びた通路の終点らしき壁が向こうに見えてきたところで、おじいさんに尋ねられた。
 「ここね、突き当りにある階段の一つ手前の左側の階段を上がっていくと、川沿いの公園への入り口が見えるところに出るよ。突き当りまで行くと行き過ぎで引き返さなきゃいけない。ただ、僕はもっと手前の階段を上がろうと思うんだよ、そちらに用事があるから。君どうする?僕の上がるところから一緒に表にでる?そこからなら、もうややこしい道とか変な場所も通らないし、すぐに川沿いまで出られるけど」
 晃は即答した。
 「一緒に上がります」
 おじいさんはたくさん人が利用すると言った地下道だったけど、確かに立派で明るい造りだがその割に、他の人間を誰一人として見かけない。
 いくら思っていたよりきれいだったとはいえ、初めて通るところをたった一人では数歩だって進める気がしなかった。
 おじいさんがいるからここまで来られたのだ、一人で行けと言われたら階段を下ることすらできなかっただろう。怖すぎる。

 おじいさんはうなずくと、「じゃあこの次の階段を上がるよ」と答えた。
 案内表記のプラスチックパネルには、赤い矢印と深夜銀行、と記されていた。
 聞いたことがない名前の銀行だな、と晃は思った。
 
 その階段を上り切ると、狭い通りに出た。
 どこかの商店の軒先みたいな、ビルとビルの隙間みたいな場所が出入り口だった。
 そして川の上方向の空はもう朱くなっていた。
 今、一体何時なんだろう。
 勢いでがむしゃらに家を飛び出してきた晃は、少し不安になった。
 これまでは興奮していたから、時間のことなどまるで気にしていなかったのだ。
 学校を出て家に着いたのが何時だったかも確かめていないが、学校の時間割は普段通りだったので、いつもと同じ3時45分頃だったんだろう。
 友達と約束していた公民館は家の近くだし、自転車で行くし、夕方暗くなっても街灯が明るい通りなので安心だが。
 晃の家は駅よりも東側にあるので、今いる川沿いからは遠い。
 駅まで晃の足で15分はかかる。
 川沿いまでは一人で歩いていったことがない。
 一月の日は短い。すぐに日が沈んで暗くなってしまう。
 晃はおじいさんに訊ねた。
 「あの、今何時ですか?」
 「ん?そうだな、4時30分だね」
 どうしよう、と焦ってしまった。
 5時には日が沈んでしまう。
 こんなことなら、駅の方に案内してもらったらよかった。
 ここから川を見に行ってから、県道を歩いて帰るとなったら家に着くのはとっぷり日が暮れて暗くなってしまってからだ。
 近所の公民館ならまだしも、暗い道を30分以上もとぼとぼ歩き続けるのはつらいし寒い。
 おじいさんはそんな晃の様子に気づくこともなく、「川沿いの公園はこの通りを左に抜けたところの信号を渡ったら、すぐに入口があるからね、間違いようが無いから大丈夫」などとのんきに説明してくれた。
 
 「あの、わたし・・・」困りごとを伝えようとした晃の頭越しに男性の声がした。
 「米谷さん?」

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