ほのかな明かりの灯る窓から 3.
振り向くと、白いシャツにエプロンをつけ、上着を羽織った姿勢のいい男の人がいた。
「おお、マスター、久しぶり。本年もよろしくお願いします」
おじいさんは帽子を取って挨拶をした。そして軽く笑って言った。
「後何回新年のご挨拶ができるかね?まあ僕は少なくともあと十回は家内の雑煮を食べるつもりだけど」
マスターと呼ばれた人は、まるで見本のような綺麗なお辞儀をした。
「米谷さんはまだまだお元気でいらっしゃる事でしょう、そうでないとこちらが困りますよ」
そして、晃の方を見た。少しとがめるようなまなざし。
「こちらのお嬢さんはお連れ様ですか?」
「ああ」
おじいさんはまた笑って答えた。
ずいぶん綺麗な歯並びだ。入れ歯なのかな。
「うちの庭に迷い込んで来られてね。川へ向かう子供のお客は数年ぶりだから、こちらまでご一緒したよ。私も銀行に用事があるしね」
「川へ?」
「川を見に行きたいんだそうだよ」
晃は驚いた。
おじいさんに、川沿いの公園へ行きたいとは言ったものの、川を見に行きたいと告げた覚えはなかった。それに、マスターに女の子だと見抜かれた事にも。大抵の初対面の大人は、晃を男の子だと思い込む。
無理もない、ショートカットにいつも男児の恰好。今だって身に着けているのは、カーキ色のダウンジャケットに黒いタートルのフリース、ジーンズ。
晃の名前をつけたのは、お父さんだ。
晃と書いて「ひかる」と読む。小さい頃から男の子みたいな名前だとからかわれていた。
お父さんは、男の子が欲しかったのだそうだ。
男の子とキャッチボールをしたり、サッカーしたり、キャンプに行ったりしたかったんだと。
お父さんの方のおじいちゃんとおばあちゃんも、男の子が良かったんだそうだ。
晃が5歳の頃、お母さんに赤ちゃんができた。
その事をおじいちゃんの家に行って報告した時、お母さんがトイレを借りている時に、お父さんとおじいちゃんおばあちゃんが「晃はしょせんよそへ出て行く子。香織さんにはどうしても男の子を産んでもらわないと」
と話をしていた。
晃は小さいながらも、大人たちが自分を大切に思ってくれていないのだ、とショックを受けた。
赤ちゃんが男の子、弟だったらどうしよう。自分はいらない子だから捨てられちゃうのかも。
それから晃は、いるかどうかも信じていない神様に、おいのりをした。
かみさま、どうか赤ちゃんが女の子ですように。いもうとがうまれますように。
神様が晃の願いをかなえて下さったのかどうか。生まれて来たのは妹の愛花だった。
それからお父さんは晃が女の子の服を着ることを嫌がるようになった。
だから入学式の衣装以来、スカートを穿いていない。
「米谷さん、この子は」
マスターの言葉をさえぎるように、おじいさんが話す。
「僕もねえ、残り時間がたっぷりあるとは言えないからね。少しでも自分にできることをしておきたい。前の子たちに繋げてあげたいと思う。こんな綺麗な明かりを灯した子は」
そして晃の方を振り向く。
「生まれつき、聡い子なんだろうね」
おじいさんの笑顔が、なんだかそれまでと違ったように見えて、晃はぞくっとした。
何が怖いのかはわからない。
猛烈な違和感。
まるで、明るい庭でしゃがんでいたおじいさんと、別の何かが入れ替わったみたいな。
マスターは少し目を閉じる。
「今から川へ行くとなると暗くなりますよ、お友達との約束があるのですか?」
「いいえ!」
晃はつっかかるように返事をした。
「あの、あの、川沿いの公園に行こうと思ってたんですけど、もういいです、やっぱり。暗くなると怒られるし。ここから駅まで遠いですか?」
おじいさんが、満面の笑顔で返事する。
「大丈夫だから、叱られる心配なんてしなくていいんだよ。銀行が開くまでマスターのところでコーヒーを飲もう。君も一緒だよ。川へ行くのはそれからでいい」
晃は本当に怖くなった。
おじいさんは、確実に変な事を言っている。
晃本人が川沿い公園に行くのをやめるって、言っているのに。
地下道を案内してくれていた時とは、まるっきり別人だ。あの時のおじいさんは丁寧に晃の気持ちを確認してくれていた。こんなに決めつけるような言い方をする人じゃなかった。二重人格なんだろうか。
それとも、最初から晃をだまして誘拐するつもりだったのかも?
テレビのニュースなどで見聞きする、子どもが巻き込まれたおそろしい犯罪が頭に浮かんだ。
そしてお母さんの声が脳裏に響く。
-だから言ったでしょう、知らない人についていったらダメだって。お母さんの言う事を聞かないんだから罰が当たったのよ、アンタが悪い子だからこういう事になったんだよ、ざまあみろ、だね。
体が硬直する。
「じゃあ、米谷さんうちへどうぞ。お嬢さんもご一緒に」
マスターが会釈して言った。おじいさんは機嫌よさそうに先に歩いて行く。晃は足が固まって動けなかった。晃の様子に気づいたマスターが、小声でささやく。
「米谷さんはいい人なんですよ。芯からの子供好きですから。あなたの事が気に入ったんでしょう。もうじき暗くなります、店から電話して、おうちの方に迎えに来てもらいなさい」
そううながされ、迷ってみたものの晃には他にどうする事もできなかった。マスターはあまり愛想のいい感じではないけれど、嘘をついて晃をだますようには思えなかった。真面目そうだった。そう思えるのは、あまりにもきれいな姿勢で流れるように動くせいなのかも知れないが。
仕方なく晃はマスターと喫茶店に向かった。
「喫茶 エデン」と書かれた看板が見えた。
2階建ての小さなビル。店の入り口の壁はタイルではない本物のレンガで作られていた。古めかしい木枠のドア、ほうろうの赤いコカ・コーラの蓋の形をした看板、エアコンの室外機の周りにはシクラメンとポインセチアの鉢植えがたくさん並んでいた。
ドアを開けると、チャリンとベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
明るい声がひびく。
髪をひっつめにした、女の人がにこやかに笑って出迎えてくれた。
「まあ米谷さま、お久しぶりですね!」
「ママ、べっぴんさんの顔を見にきましたよ。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします。いつものでよろしいですか?」
「そう、今日はお客さんをお連れしたから、この子にも温かいもの作ってあげて。だからカウンターじゃなくてテーブル席がいいんだけど」
「かしこまりました。こんにちは。いらっしゃいませ」
ママと呼ばれた人は、明るい目で晃に微笑みかけてくれた。
「ご注文はどうしましょう、コーヒーじゃ夜眠れなくなりそうね、ココアはどうかしら?おきらい?」
晃はドギマギしながら、「すきです」と返事をした。
ママは「はい、ではホットココアでいいかしら、外はもう寒くなってきたでしょ?」
うなずくと、ママはにっこり笑ってカウンターの中へ入っていった。
きれいな人だった。髪は白髪だし顔にはシワもあるから、きっとお母さんより大分年上のはず、それでもかわいらしい美人さんだ。
上着を脱いできたマスターもカウンターの中で動きだした。
ママは二つのコップに水をそそいでテーブルへ運んできてくれた。
ママもマスターと同じく綺麗な姿勢で動く。しかも軽やかに。
まるで蝶々がひらひらと飛んでいるみたいにみえた。
おじいさんも、さっきの怖い笑顔が嘘のように消えて、最初に出会った時の優しい顔に戻っていた。
向かい合わせで小さな丸いテーブル席についている二人以外に、店の隅の方の席で新聞を広げて読んでいる男の人がいた。
おじいさんはその人とは知り合いではないようで、挨拶をかわすことはしなかった。
ママがテーブルにコップを置いてくれながら、「お嬢さん、おうちに電話するんですって?そこのピンク電話からだとお金かかっちゃうから、こちらの黒電話を使って。こちらへどうぞ」
そう言って、晃をカウンターの方へ連れて行ってくれた。
お店の電話は、実物を初めてみる、ダイヤル式の黒電話だった。
どうぞと言われても、どうやってかけるのだろう、見当が付かない。
ママが笑ってダイヤルの回し方を教えてくれた。
ジーコロコロコロ。穴に指を入れてダイヤルを回すと、意外に重たい感触と、不思議な音がした。
呼び出し音の後、留守番電話に切り替わった。
「もしもし、お母さん、晃です」
緊張すると敬語になってしまう。言葉遣いは小さな頃からしつけられていた。だが、録音を吹き込もうと話し出したとたん、通話が切られてしまった。
お母さん、家に居るんだ。だけど、わたしと喧嘩しているから、電話に出てくれないんだ。
そう気が付いて、晃は血の気がひいた。
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