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フォーカルジストニアになって-一人じゃなかったから…

こんにちは。初めまして。
私は、津軽三味線輝&輝(KIKI)というユニットで活動をしている武田佳泉と申します。

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この「輝&輝」というユニットは2008年に相方の白藤ひかりと共に結成し、現在丸13年活動を続けています。ありがたいことに、今のところ1度も休止することなく

というのも、2018年に私が「フォーカルジストニア」という脳の誤作動で三味線を弾く時だけ指が動かなくなる病気を発症したからです。

津軽三味線は、主に左手の人差し指・中指・薬指の3本を使って音を変えていくのですが、今私は薬指がうまく動かせないので、人差し指と中指の2本で演奏しています。


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いつも隣にいて私を舞台に立たせ続けてくれた相方のことを書きたいと思います。

相方、白藤ひかりという人

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そもそも、彼女との出会いは2004年中学三年生の5月まで遡ります。まだ、三味線教室に通い始めたばかりの私は、青森県弘前市で開かれた全国大会に見学に行きました。最近は少し和楽器ブームで若い人の人口も増えてきましたが、まだまだ他の楽器と比べるとマイナーで大会は全国大会しかありません。なので、自ずと三味線を手にして初めて出る大会が全国大会。出場者は三味線を手にして1年の人もいれば、20年の大ベテランの人まで様々です。部門は、年齢や芸歴ごとに分けられ、小学生の部や壮年の部、プロも出場するA級などに分けられています。これが私が初めて足を運んだ大会で、どんな人たちが出ているのかとてもワクワクしていました。

会場で一日中、舞台にかぶりついて大会を観ました。まだ三味線を習い始めたばかりで上手いも下手もよくわからない素人のくせに、プログラムに演奏を聴いて気になった人の名前を○で囲って勝手に審査員気分を味わっていました。

子どもの部門が終わり、大人の部門が始まったところで一人の奏者に釘付けになりました。それが今の相方、白藤ひかり。プログラムを見ると自分と同い年で兵庫県出身。中学生の部があるというのに大人の部門に出場している子がいる。と衝撃を受けたのを覚えています。さらに、とても可愛らしくておしゃれ。こんな子うちの地元にはおらんぞ!?

「こんなに可愛い子が三味線弾いてるんだ!!」とこれまた衝撃だったのを記憶しています。当時「じいちゃんばあちゃんの楽器っていうイメージを自分が覆してやる!」と生意気な態度でいたのですが、そんな私の浅はかな考えが覆ったのでした。

これから自分がこの世界の同世代の中に入っていけるのかというちょっとの不安を感じ、でもそんなすごい人たちとこれからたくさん出会えるのかもしれないという高揚感でいっぱいでした。

津軽三味線デュオ「輝&輝」結成

それから、私も大会に出場するようになりプログラムで「白藤ひかり」の名前を見つけては影からストーカーのようにこっそり視線を送り、ドキドキしていました。その度に自分なんかはまだ知り合いになれるレベルじゃないからもっと上手くならないと、せめて一番下の部門でも賞に入って表彰式に出られるようにならないと、などと思っていて、今思えば目標が入賞することなのか「白藤ひかりさんと知り合いになるぞ!」なのかわからないくらいになっていました。
その念願かない、しばらくして私も少しずつ入賞ができるようになり、勇気を出して「白藤さんですよね?」と話しかけることに成功し、なんとまさかまさか2008年大学入学のタイミングで上京したのをきっかけに輝&輝というユニットを一緒に組むことになるとは誰が想像したでしょう。

全然違う二人


ユニットを組んでまず感じたことは私たちは何もかも違う、ということです。三味線の流派も違えば、出身地も違う。見た目も、相方のぴーちゃん(晴れてユニットになったので普段の呼び名に。)は二重で目がぱっちりしているし、私は一重で細い。ランチに行ったお店で、イケメン店員さんが2人いてどっちがタイプかという話になると必ず別々の方を答えました。結成した当初の若い頃「同じ人を好きになっちゃったら大変だね〜」なんてことを周りから言われましたが、そんな心配は全く必要ありませんでした。性格もぴーちゃんは感じたことをすぐ素直に言葉にできる一方、私はじっくり一回自分の中で煮詰めてからでないと話せないタイプ。あとは、ぴーちゃんは夜型で私は朝型…などなど。

そんな2人でどうやって13年も!?と疑問を抱く方も多いかと思いますが、三味線の好みや音楽性はバチっとハマっていました。ライブに行くのが好きな私たちは、同業の方の和楽器のライブから、JpopやJazz、ありとあらゆるライブやコンサートに一緒にでかけました。見た後の感想を語り合うのが楽しくて仕方がなく、共有できた喜びからそれを自分たちの音楽活動に生かすことができました。いいライブを見た後の舞台ではアドリブがいつも以上に盛り上がる!!というのが私たちの定番です。

もちろん、大変だったことがなかったと言えば嘘になります。大学を卒業したばかりの頃、お金も時間もなく、ストレスを溜めてしまい、お互いの違いを理解できなくなったことがありました。その時、初めてケンカというか、罵り合いというか、殴り合いというか…流石にそこまではいっていませんが、お互いの意見をぶつけ合いました。
2人とも自分の想いを伝えましたが、夜通し話しても言葉を交わすほど、どんどん訳がわからなくなりました。しかし「もう解散か!?」というワードが出た途端に「それは嫌だ!」という意見が一致して、抱き合いながら号泣。気づくと外が明るくなり始めていました。

解散は嫌。価値観を全て理解するのは無理だから諦めようと。諦めることが1番の解決策なんて、妥協策のように感じますが、その時はこれが正解でした。この頃から、お互い違うから面白いんだということが分かってきて、それぞれの考え方、感じ方に寄り添えるようになってきました。結果として、一つの出来事に対して二つの見方ができるという技を身につけ、今まで輝&輝に欠けていた冷静さが生まれました。

最大のピンチ!?


結成して10年、やっと自分たちの活動のカラーが見え始め、周りに良きチームが集まり始めた矢先、私の左手の薬指が突然動かなくなりました。

はじめは、「なんか最近指が外れやすいなぁ」という感覚だったのでただの練習不足だとほっといたのですが、弾けないフレーズを練習すればするほど下手になる現象が起きていました。

だんだん、ただの練習不足ではないなと気づき始めてネットで色々な情報を検索しました。「楽器 練習 下手になる」「楽器 指 動かない」など…。すると、ミュージシャンで同じような経験をされている方が数多くいらっしゃることを発見。整体や病院のホームページに記載されている内容も読み漁りました。どうやらこの症状は「フォーカルジストニア」とか「局所性ジストニア」とかいうらしい。

とはいうものの、まだこの頃は病気だと認められず、気のせい、たまたま指が外れやすいだけ、明日の朝になったら治ってるかもしれないから早く寝よう、と思う日々が続きました。しかし、私の期待とは裏腹に毎朝起きてすぐケースを開けて三味線を構えてみるのですが、指はやっぱり動いてはくれませんでした。むしろ、他のフレーズまで弾けなくなってきている気がする…。大好きな津軽三味線を弾くことを初めて怖いと感じました。

「絶対に何かおかしい。。今日の演奏でうまく隠せるだろうか、なんとか誤魔化していかないと…でもどうやって?」と絶望で1日を始める毎日がスタート。その頃、私は誰にもこのことを話せないでいたのです。もちろん、相方にも。

お客さんに申し訳ない、プロとして恥じるべきこと、そんな風に感じてしまい、身近な人にさえ相談もしないまま何ヶ月も時が流れてしまいました。

指が動かないことがバレた!!


しばらくなんとか演奏を誤魔化してその場しのぎでやりくりしてきたのですが、そんなことは長続きするはずもなく"その日"はやってきました。

この日の演奏は約1時間のコンサート。きっと何もなければとても楽しみな公演であったはずです。しかし、この時の私は「1時間も誰にも指のことがバレずに弾き通せるのか…」という気持ちでいっぱいでした。

必死にポーカーフェイスを装って、どの曲も不安で恐る恐る演奏していたのを覚えています。コンサートの中盤あたりまで来たところで、美空ひばりさんの愛燦燦を演奏する順番が来ました。この曲はそんなに音数も多くないし、運指も難しくないからやっとこの気持ちから解放される、と思った途端、、、正しいツボ(三味線の音程)が押さえれなくなりました。おかしいと思うほど気持ちが焦ってしまい、普段ではしないようなミスを連発。。

その後も失敗を引きずってしまい、心ここに在らず…という感じで幕が降りました。

コンサートが終わって楽屋に戻ると、お疲れ様という言葉と共に相方からかけられた言葉は「今日何かおかしくなかった…?」でした。
もう隠せない。。 


相方にジストニアを打ち明ける


その場で、数ヶ月前から指が思うように動かないこと、ずっともどかしい気持ちをいだいてたのだけど話せなかったことを伝えました。

まず言われたのは「なんですぐに言わないの!?」という言葉でしたが、自分でも意外だったのは隠せない不安や今後の恐怖よりも「やっと言えた」という安心感の方が大きかったことです。今までの心のモヤがスーッと晴れていくようでした。

この日の帰りの新幹線の中、私はこれまで考えていたこれからのことを話しました。
「この病気は治るかが分からないし、どんどん悪化するかもしれない。最悪な場合は、私は三味線弾きを続けられるかも分からない。これからどんどん依頼が増えても、私は確実に足手まといになる。そんな中でも私は輝&輝のメンバーとしていていいのかが分からない…」と自分自身も分からないことばかりだということをたくさん話したような気がします。

輝&輝を続けられないと思えばそれを受け入れるし、相方にはこれからもどんどん活躍してほしいと思っていました。

しかし、彼女はこう言い放ったのです。

「何言ってるの?指の一本くらい私がフォローする。まだ弾けなくなるって決まったわけじゃないんだから急に辞められても困る。」

と。

こんな私でも、必要としてくれることがとても嬉しかったし、状況を聞かされて不安になっただろうに、こんなにも心強い言葉をかけてくれたことに驚きと感謝が込み上げてずっと目に涙を浮かべていました。
なんてかっこいい相方なんだ。。。

「こうなったらどうしよう、もう無理かもしれない、あーだのこーだの…」数ヶ月抱いていたネガティブな気持ちを一瞬で跳ね除け、これから進むべき道を照らしてくれました。

これは後から知ったのですが…
相方は指が動かないことを話したら「輝&輝を辞める」と言うかもしれないと思われてたのが悲しかった、と。

この言葉を聞いて、なんて私は自分勝手だったんだと思い知らされ、また泣いたのでした。


今でもこの日のことを思い出すと胸が熱くなります。相方がいてよかった、まだ三味線を続けられる、必要としてくれる限り頑張ろうと思えることが私を支えてくれています。

その日を境に、自分のその日の状況や、出来ること・できないことを一緒に探し、今まで2人で積み重ねてきたことを続けるためにどうしたら良いかを話し合えるようになりました。

久しぶりに「未来は明るい」と感じることができたのでした。

もし、私が1人で活動しているプレイヤーだったら、三味線を弾くことを辞めていたかもしれません。夢も諦めていたかもしれません。2人だったから、相方がいたから、1番苦しかった時間も私は1歩も足を止めることなく前に進み続けることができました。

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一人じゃ気づけなかったこと


今思い返せば、辛いと思っていた日々も気づくと毎日楽しませてもらっていました。多くの奏者と違う弾き方をして、このなんでも動画に残ってしまう時代で、どうやったら三味線弾きとして生き残れるのかと最初は悩んでいたけれど、前へ前へ引っ張って行ってくれる相方に振り落とされぬよう必死にしがみついていたら、演奏できる幸せを噛みしめて周りがどう思うかなど気にならなくなっていたのです。

昨今、多様性という言葉をとてもよく耳にします。自分との違いを感じるとなんだか近寄りにくい、という雰囲気はまだ少なからずあると感じます。自分が病気になって、すぐ人に言えなかったこともきっと周りからそう思われて腫れ物扱いされたり、変な噂を流されたりするのを恐れていたから。実際には、私が心配していたことは何一つ起きませんでしたが、この症状のことや、病気になったことで感じた気持ちを他の人に全て理解してもらうことはとても難しいことだと感じました。でも、だからといって同じ病気を持っている人の気持ちが全て同じかと言われると、そういうわけでもなく。。

病気や障害がなくとも一人ずつの人生はみんな違う。同じように見えていても、やっぱり違う。病気になる前から、相方が「赤だ」という世界を私は「青だと思ってた!!」ということがよくあったし、きっと私が黄色だと思ってた出来事を相方は緑だと言うこともあったでしょう。
世の中、みんなそれぞれ悩みながら、頑張っている!!

完璧にわからなくてもいいんだ。傷つけさえしなければ、完璧な理解ができなくても、ちょっと寄り添い知ろうとしてみるということがシンプルだけどとっても大切なことなんだと感じています。
病気になってから如実にこの想いが強くなっていますが、ずっと前から視点を変えれば同じようなことを何度か経験してきていることに気づくことができました。


色々なことがあって現在輝&輝は14年目、1人じゃなかったからこんなに沢山の価値観を知ることができたし、経験値を積むことができました。相方に頼りすぎて急に1人にされるとワタワタしてしまう自分はどうなの!?と思うこともあるけれど、それは次の課題として……。

これからもきっと私は迷惑をかけてしまうのだと思いますが、私も持ち前の努力と根性を振りかざしていくので、2人で前に進み続けましょう!
ぴーちゃん、いつも本当にありがとう!


#一人じゃ気づけなかったこと