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分かりあうこと〜言葉の不自由さ〜

不機嫌な表情を浮かべている人の近くにいると
(楽しくないのかな〜)
(何か気に障ることをしたかな〜)と
あれこれ心配してしまう。

察するにも限界はあるので、不機嫌な理由を教えてもらえないとわかりっこない。

ただ、その時に相手が言葉にしたいとは思っていないかもしれない。

言葉にすることで、さらに気分が悪くなるときもあるからね。

そんな時、相手に何も聞かずにそっとしておくか、それともモヤモヤに耐えきれずに「どうして不機嫌なの?」と聞くのか。

その選択は、自分自身の心の余裕次第だ。

「お互いのことを分かりあうためには、言葉にして伝え合うことが大切だ」という信念の下、「何でもかんでも話してほしい」というのも違う気がしている。

と言うのも、言葉は“不確かで不自由なもの”だからだ。

ある言葉からイメージされることは一人ひとり微妙に異なる。

例えば「ギスギスした雰囲気」や「美しい山の景色」で思い浮かべることはそれぞれ違うだろう。

同じ言葉から連想できることは、これまでの経験に依存するからだ。

そして、不確かなのは言葉のイメージだけではない。

相手の嫌いな言葉をうっかり使えば、怒りを買うかもしれない。

私が相手のニュアンスの通りに受け取っているとも限らない。

相手の口から出た言葉であっても、本意ではないかもしれない。

つまり、どんなに言葉を尽くしても、自分の思いを伝えること、相手の言葉の意味を100%理解することはむずかしいのだ。

だからこそ、言葉はあいまいなまま受け取ることを大切にしたい。

「相手がこう言ったから、こう思っている」と決めつけずに、柔らかく受けとめたい。

ある程度の矛盾も許容したい。

そんな自分であるためには、心に余裕が必要だということだ。

いつだって相手との関係性を悪くさせるのは
心の余裕のなさと、自分の思い込み。

逆に言えば、心に余裕をもって、思い込みを自覚していれば、相手とわかり合いたいと思い続けられるような関係を築ける可能性があるってことなのかもしれない。



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