あるがまま哲学-トレーニングと無意識

例えば、テニスの為にトレーニングをする。初めは、①とにかく打ってみる。勿論うまく行かない。そこで、②基本動作や身のこなしを分解して、反復練習する。そして、その動きを意識しながら、実際ボールを打ってみる。うまくいくこともあるが、なんだかぎごちない。実際のゲームになると、意識する暇はない。最後は、③もう一度、敢えて無意識になり、その状態で最適な動きができるようトレーニングする。この循環を繰り返し、スパイラル状に上達していくのが、理想だ。

これは、禅の心身的側面と全く同じだ。禅は、「無」(無心、無分別、無意識)が、重要なテーマだが、勿論、あるがままでいいと言う訳ではなかろう。仏教的行為である以上、そこに慈悲、悟りが湧き出て来るものでなくてはならないはずだ。ここで、「座禅、読経」のような修行=トレーニングが、極めて重要な位置を占めることになる。

トレーニングにしろ、禅の修行にしろ、ここがめちゃくちゃ難しいところ。一度無意識化した後で、最高のパーフオーマンスや悟りに達する方法論は、顕在化できるものではないようだ。

ここから先は、方法論の世界ではない、というのが先人の到達点のようだ。「以心伝心」「只管打坐」だ。それを可能にするコーチが、稀に名コーチ、伯楽と呼ばれる。

この辺りが、心と身体の神秘が潜むゾーンなのかも知れない。出来れば、もう少し考えてみたい。

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