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ビラまきについて―向井孝「ビラについて」を読む

補足・昔、ミニコミに書いた文章。向井孝についてはちゃんと読みたい。

 詩人・活動家としてしられる向井孝(1920-2003)は、「ビラについて」において、「文字」が印刷されている紙切れにすぎないものがいかなる意味において「ビラ」なのかと問うた¹。そして、その「文字」が意味する①「内容」と、形象化の②「技術」、そのようなビラの③「まき方」の3点の完全な具備がビラをビラたらしめるとした。このような意味をもつビラについて考察する視点はいくつかある。例えば、すでに行動している人に自信を与えるものと、これからの行動を多くの人々に訴えるものでは内容が違うように、目的に応じて文体は変わる²。あるいは、「湾岸の石油産出地帯の支配層から、メキシコのギャングにいたるまで、スタイルを確立した集団は自分たちの表現としての書体を持っているものだ」(福田慶太「文字の叛乱 ゲバ字が持つ力と意味について」³)とも言われるように、技術に規定されたり技術を使う意識性により文字の表現のされ方は異なるのではないか(学生運動文化において一定の位置を占める「ゲバ文字」を想起されたい)。以下ではさしあたり、先述のビラをビラたらしめる要件のうちの③「まき方」について――とくにこれといって考えずに、しかし、なんだかんだビラ撒きをやってきて、その「まき方」を人に教えたり教えられたりということを漠然と積み重ね、ときには話題にしてきたように思うので――、自分の経験をふりかえってみる。私の貧しい経験に負うところが多く、一般的なことと特殊なことを混同しているかもしれない。意見・感想をいただきたい。そして、各人のビラ撒きに役立つことを望む。
 まず1つ思いつくのは、当然といえば当然だが(しかし、いつも自分ができていたとは思えない)、自らの撒くビラの内容をしっかりと理解し、そのうちの主要伝達事項にもとづいたシンプルな声かけをはっきりと行うことである。シンプルな声掛けとは、ビラを受け取るために歩いているわけではない人々に「何」をしているか伝えるために不可欠である。歩いているときに、ただ「紙切れ」を差し出されてもあまり受け取ろうとは思わないし、また、歩いているときに一通りちゃんと聞かないと内容がわからないことを話しかけられてもお互い効率が悪い。サラッと言える「〇〇に反対してまーす」「××(長過ぎない)な〇〇反対!」「〇〇反対のデモやります」といったかたちが多いだろう。しかし、また、ビラを受け取る人は、内容がわからなくても受け取ることはあり、ある程度声掛けを続けて疲れてきたときやパターンが思いつかないときは、とりあえずなるべく明るく「お願いしまーす」と言いながら撒くとよいと思う。経験上、これは無言で差し出すよりは受け取られやすい。
 そして、声掛けをするときに、人との距離が問題になってくる。人通りが多いところで1人1人にいちいち声掛けをしていては非常に疲れてしまう。そのため、人通りが多いときには、自分の位置からある程度距離がある一定の人々の「塊」にやや大きい声でまとめて声掛けをし(そして1人に直接手渡すときには「お願いします」など言ってよいかもしれない)、人通りがまばらなときには1人1人に声掛けをすることになる。その上で、どちらの場合においても、ビラを渡す手と目は目の前の1人ずつに焦点をあててテキパキと出し引きするのが大切だと考える。
 そのほか、文字内容と形象からなる「紙切れ」そのもの以外の点で、「紙切れ」をビラたらしめるものとしての「まき方」を考えていくと、これはビラの受け手に視覚や聴覚による補足情報を与えるものだとさしあたりいえる。これには、プラカードや旗⁴、またゼッケンやジャケットなど配る側の服装がある。あるいは、ビラ撒きは1人でやる場合もあれば複数人でやる場合もあり、そうした人の路上における配置やマイク・トラメガ・宣伝カーと声掛けの組み合わせのあり方等がある。複数人でビラ撒きをする場合は、お互いの立ち位置に口を挟むのは野暮にかんじるかもしれないが、撒き手同士が近づきすぎていたり、あるいは、人がたくさん通っている箇所に撒き手がいないときなど、口のはさみ方に気をつけつつ調整することが望ましい。もちろん、理想としてはビラ撒き参加者全員が全体をみつつ活動し、自発的に自らの位置を調整するのがよいと思われる。こうした視聴覚情報補足手段は、例えば、撒き手が密接に関わる職場あるいは学校門前でやる場合と駅前緊急該当アピールの場合の違いなど、撒き手と受け手の関係、場所に応じて取捨選択し、組み合わせたりするものであろう。
 冒頭で参照した向井孝にもどると、ビラをビラたらしめる3つの要件を述べたあとに、「それに加えて、ビラはそのこと以上に、何よりもぼく自身、おのれそのものの掲示だということだ」と続く。それは、「何百回、何千回分の一回」において、ビラを「その毎ごと」の「ぼく」自身として受け止めてもらう「出会い」をするには、「ぼく自身が、完全にビラになる」ことが求められるということである。そして、そのためには、ビラは数ではなく、「自分そのまま」であり、くわえて、「相手のおもいをぼくのおもいにできるときだけ」につくらねばならないと述べる。これはどういう意味か。
 まずもって、私たちは訴えたいことがあり、それを受け手に対して曲げる必要はなく、その意味で「自分そのまま」である。一方で、私たちは、ときには不利な状況でも--「通りすぎるとき半数が、手にしたビラをさっと棄てていく」(ここも「ビラについて」から)--受け手に信頼を呼び起こさねばならず、そのためにこそビラの内容・形象・まき方を工夫する必要があり、「相手のおもいをぼくのおもい」にできる能力乃至余裕をもたねばならない。こうして遂行される「ぼく自身が、完全にビラになる」とは、以上のような2つの焦点を持つところの「ぼく」と「相手」の緊張関係を「ビラ」として外化させた表現である⁵。
 今日、ジェントリフィケーションの下で、ブルジョアジーによる土地の「囲い込み」が推し進められている。野宿者追い出しやストリートカルチャーへの弾圧、公園有料化、転がすためにあるガラガラのタワマンなどは典型的事例だろう。こうした状況で「ビラ撒き」も強烈に都市において異化される作用-冷笑や警察による妨害-にさらされる。「ビラについて」をはじめとした向井孝の諸作品をいま私たちが読むことは⁶、暴力に抗い政治的想像力を養う訓練となると考える。
 
 

1.『向井孝小詩集 ビラについて』(WRI-JAPAN出版部、1983年)所収。
2.有名な、レーニン『何をなすべきか』における宣伝/扇動の区別等を労働運動の視点から整理した大庭伸介の「連合労働運動をどう打倒するか」のⅣ「組織活動を総点検しよう」が参考となる。大庭伸介『レフト―左翼労働運動の総括と展望』(自費出版、2013年)に所収。それを参考としつつ、「ビラ」を宣伝的側面と扇動的側面の混合であることをここでは強調しておく(大庭は扇動の主要宣伝手段にビラをあげている)。関連して、革命運動におけるビラの位置付けや宣伝/扇動における具体的工夫については、日本共産青年同盟宣伝戦線編集委員会『宣伝戦線』(新時代社、1977年)など。
3.四方田犬彦・平沢剛『1968年文化論』(毎日新聞社、2010年)所収。
4.人づてに聞いたところによれば、手に持っているビラの束を受け手にみえるようにするという工夫もあった。しかし、受け手の側が撒き手がもつ「ビラの束」を気にするかは私にはわからない(むしろそれはないんじゃないかとも思う)。旗に関して言えば、例えば、今年6月に行った、差別的悪法たる「LGBT理解増進法」反対スタンディング&ビラ撒きでは、立てかけていたトランスジェンダーフラッグやレインボーフラッグに気づき、向こうからビラを取りに来る人々もいた。
5.わかりやすいたとえで言えば、カフカの「変身」を想起されたい。小野十三郎の詩作も参考になる。
6.協働者である水田ふうの存在を忘却してはならないだろう。

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