1985 山谷から 2021 釜ヶ崎へ―――『山谷 やられたらやりかえせ』によせて

●寄せ場の共同性 

 昨年から今年にかけて、ドキュメンタリー映画『山谷 やられたらやりかえせ』(以下『やらやり』)を何度かみる機会をもった。日雇い労働者の街・山谷で支援活動を担っていた佐藤満夫が 1984 年に撮影をはじめた矢先に右翼暴力団に殺され(冒頭はそのシーンである)、翌年に山岡強一を中心とした有志が佐藤を引き継ぐかたちで制作・完成させ上映運動を続けている作品が「やらやり」である(山岡も完成後に殺された)。山谷を中心に横浜の寿、名古屋の笹島、大阪の釜ヶ崎、福岡の築港といった各地の寄せ場のみならず、建設産業の労務管理の源流でもある日本の植民地支配の歴史、エネルギー政策により多くの労働者がそこから寄せ場へ流出させられてきた九州の炭鉱、また昨年 11 月に東京・渋谷のバス停で女性野宿者が殺害され大きく報道されたように今でも相次ぐ野宿者襲撃が広く認知される契機となり、山岡がかつて“(襲撃をした)少年たちは自らの未来を殺した”と評した横浜野宿者連続襲撃事件等々にまで、カメラは歴史的にも論理的にもダイナミックに移動する。『やらやり』は、いわば、寄せ場において搾取と差別の下にバラバラにされているという意味における「個人」としての経験と、共通の利害と運命をもち団結しうるところの「共同性」としての経験をつなぐ歴史と論理をさぐる映画であり、寄せ場が過去―現在―未来を通していかなる存在(でありうる)かを提示しているのである。
 1 つのエピソードに注目してみよう。たしか越冬闘争における人民パトロールのシーンだろうか、若い支援者が 1 人の野宿労働者に対し「先輩」とよびかける※1。「おじさん」や「おっちゃん」その他ではなく「先輩」が選ばれたことには大きな意味があると私は考える。学校や会社で使われる「先輩」という表現には、何らかの「共同性」内部の具体的人間関係を明確化したうえでの敬意や親しみが含意され、ときにはそれを前提とした慣れあいや意味の転倒をも示す。ただし、寄せ場という空間では、不安定な雇用形態にもとづく労働者の生活の流動性に加えて、差別により社会から排除されてきた人々、空間的移動のみならず、様々な事情で自己のアイデンティティを消そうとするという意味における「亡命」や痛みの経験をもつ人々が多くいるために、お互いの過去に深く触れない規範がはたらき「共同性」の形成が困難であることに留意する必要がある※2。そうであるならば、学校や会社で使われる時とは逆に具体的人間関係が不明確なままに(むしろ、寄せ場の人
間を“ダメな奴”とみなす「社会」における諸々は無視して)、しかし人間への敬意をもって寄せ場の「共同性」を構築しようとする試みがこの「先輩」概念の使用ではないか。つまり、「先輩」とよぶことは、唯一絶対ではない「複数の、ときにはまったくあい反するものと見えるものから、互いに微妙な差しか示さぬものにまで及ぶ諸行為のうちからの、選択として」※3 あり、寄せ場の労働者たち、そして共に闘う者がいかにして「真の連帯」※4 をなしうるかという問題意識と切り離しえない、困難な共同性への経験と思考を、わずかながらも示しているのではないだろうか。
 さらに言えば、この映画が、観るものの成熟を促してきたところの「映画=運動」としての上映運動の系譜をもっていること※5、思想や理論がある意味わかりやすく色濃く出ている一方で(理性)、他方に音楽(情動)の作品であり、共同体の/「運動」の2 つの側面たる「対話」と「音楽」を駆動させていること※6 を確認したい。

●「やられたら」と「やりかえせ」のあいだ
 タイトルにふくまれ、「黙って野たれ死ぬな」とともに日雇労働運動や野宿者運動でよく使われるスローガン「やられたらやりかえせ」が意味するものには様々な解釈や使われ方があると思う。「報復の連鎖」という否定的な意味をもって人口に膾炙している言葉やニーチェ的な「復讐」やら「ルサンチマン」の議論、また小説・テレビドラマ「半沢直樹シリーズ」で使われ流行語となった「やられたらやり返す、倍返しだ!」を思い起こす人もいるだろう。あるいは、資本は不断に労働者からその力を吸収しているのであり、いわば労働者は常に「やられている」のだから「やられたらやりかえせ」とは未だ「やられていない」ものたる小ブルジョアジーの没落への危機感ではないかという見方もありうる。
 しかし、さきほど述べた「共同性」との関係を考えると、「やられたら」と「やりかえせ」のあいだには、バラバラにされていた個人から仲間と連帯する共同性への意識的跳躍があるとみなせるのではないだろうか。現実に規定された状況を武器に転化することを志向した山谷や釜ヶ崎の活動家達がかつてとらえたように※7、この共同性の顕現はまず何よりも寄せ場労働者が実際に「暴動」としてなしていた経験である。そして、この「すでになされている」共同性の経験と思考を、把握し自己や他者の日常へと自覚的にもちこむこと、その往還は寄せ場の歴史的にも現在的にも重要な試みであり、『やらやり』という作品も暴動と共にその一環としてあるのではないか。また、今もって様々な課題をなげかける諸問題―釜ヶ崎・山谷の運動やある程度共有しうる質をもった東アジア反日武装戦線への激しい弾圧、1975 年に沖縄の米軍基地ゲート前で焼身する船本洲治の、1979 年の山谷の交番警察官に対する磯江洋一の「単独」による決起、朝鮮人や精神病者、被差別部落との共闘―を、山岡が受け止め総括していく過程とともにこの作品はあるだろう※8。

●労働者はどこへ行ったのか?
 なお、「寄せ場の未来を切り拓くため、現実を映像にとらえる」と宣言した佐藤は、全共闘運動に参加、東大闘争では列品館で逮捕、その後は映像業界に従事していたという。映画制作にあたって山谷労働者に向けたビラで「個人的な事情を述べますと、この映画に取り組むことによって、十五年つづけた稼業の垢を洗い落し、生まれ変りたいわけです」と述べている(これには “寄せ場は働いて垢をためるところだ”という反応があったそうだ)。「亡命」・「復員」※9、そして死に至るまでの15 年とその後は、佐藤が“生まれ変われたい”と述べた生と社会、そして「寄せ場」に、何をもたらしたか。
 全共闘運動から山谷・釜ヶ崎の暴動や現場闘争もその一環としてあったことを断固として確認すべき、先進資本主義国から第三世界まで貫く 60 年代末~70 年代初頭の大衆反乱=国際階級闘争の爆発は、変動相場制移行を典型に民衆を抽象的な<国民>や<労働力>に還元するシステムに危機―D・クレーバー的には「包摂の危機」―を招き、大反動をも引き起こした。日本では企業別組合(労働者の自発性調達と一体で異分子排除の労使関係構築)・地域社会の反動的組織化(反「過激派」キャンペーン、住民運動の体制内取り込み)・暴力装置で構成される高度経済成長期に成熟した支配的ヘゲモニーで資本家は階級支配の強化がはかられていく(企業社会の形成)。さらに、『やらやり』の時期、日本型新自由主義政策の展開に大きな位置を占める「戦後政治の総決算」を高らかに掲げた中曽根康弘政権下、民間が先行するかたちで労働運動の「右」への統一(総評解体、連合結成)、「国鉄分割・民営化」をめぐる攻防がなされていたことも忘れてはならないだろう。1986 年3 月に刊行された当時の社会運動系雑誌『インパクション』第40 号では、山岡も結成に尽力した全国日雇労働組合協議会(日雇全協)議長・風間竜次の「山岡強一氏虐殺を糾弾する ―「戦時下」労働運動の全国陣型を」に加えて、公共企業体であり争議権が制限されているにもかかわらず「国鉄分割・民営化」に対してストライキをもって対決した国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)書記長・布施宇一「分割・民営化=一〇万人首切り阻止 動労千葉はいかなる弾圧にも屈服しない」を軸に「浮上する強権政治と暴力支配」特集を組んでいることからもこの時期の熱気は想像しうるのではないか。
 そして、高度経済成長期以後には労働者の「滞留」・高齢化として現れるように、建設産業へ従事する単身男性労働力供給の場へ特化していく寄せ場の方は、その空間をもはや経由しない日雇労働力求人網の形成も 1980 年代には確立され、徐々に労働力市場としての地位を低下させていく(バブル崩壊以後にそれは決定的なものとなり、こうした寄せ場の「解体」も一因として多くの野宿者が都市へ現れ、行政は「ホームレス対策」をすることになる)※10。このような寄せ場の再編・変容を厳しくとらえ、かつてたくさんいた労働者はどこへ行ったのか?どこへ行き得るのか?という問い(どこから来たのか?も表裏一体である)を山岡は発し、のちに佐藤と自らを殺すことになる山谷労働者に敵対する右翼暴力団の動向もこの再編との関係で把握していた(山岡の論文集『山谷 やられたらやりかえせ』参照)。『やらやり』の後半で写される九州の「労働下宿」は、寄せ場の変容と各地に拡散する飯場を把握する視座を与えるものだ。

●「俺たちはここにいるぞ」―『やらやり』の後で
 現在、かつての寄せ場のような見えやすい空間を越えてあらゆる領域で不安定雇用は拡大し、搾取と収奪の境界の曖昧化がすすむ一方で、労働組合の組織率は低く、働く者・貧しい者はAI や携帯電話といった技術革新の「成果」、囲い屋=貧困ビジネスを介して個人単位で管理され、都市における貧しい者の層としてはみえづらくなっている。その日限りの、安く使える若い労働力は「寄せ場」を通さなくても、国境を越えて集められるのみならず、暴動など起こさない。つまり、「社会の総寄せ場化」と言われる事態の一方では、社会的不公正が可視化され、ときにはそこに生きる人々が共同の実践を通して自律性をかたちづくりうる旧来の「寄せ場」のような空間の消失をもたらしている。そこで確認しなければいけないことは、このような不可視化は自然現象ではなく、社会的不公正を隠蔽し、経済的なポテンシャルをもつ地域を貧しい者の占有から「奪還」するという、持つ者が持たざる者から奪い取るものでもあるということだ。大阪城公園や靭公園、長居公園などにあった野宿者たちのテント村が次々と行政代執行により強制排除されたこと、そして、あいりん総合センター閉鎖・建替を象徴とする、「西成特区構想」以後加速される釜ヶ崎の再開発もそのような過程のなかでとらえられるべきだろう。貧しい者は何とか生きていくための空間からさえ追われていくのである。大阪の公園における反排除闘争を撮った『関西公園~Public
Blue』(アンケ・ハールマン/2007 年)では、強制排除を前にした野宿者たちが「俺たちはここにいるぞ」とシュプレヒコールをあげていたことを想起したい。
 以上、1985 年に山谷から出た『やらやり』(そのものにあまり内在せずに)やその背景について、現在への過渡的に乱暴に記述してきた。「やられたら」から「やりかえせ」への跳躍=共同の実践―なおコモンズ(commons)は語源的には本来動詞であり“ともに実践する”といえよう※11―の経験を提示するこの映画は今もって深刻な問題提起をおこなっていると思う。



1.木幡和枝・平井玄「対談「ライブスペースplan-B を語る」」(http://www.anerkhot.net/yama_jyoeii/?p=160)でも言及されている。
2.西澤晃彦「寄せ場労働者の社会関係とアイデンティティ 東京・山谷地域を事例として」(『社会学評論』41(3)日本社会学会、1990 年、248-260 ページ)。
3.野村修『ブレヒトの世界』御茶の水書房、1988 年、210-211 ページ。
4.藤井克彦・田巻松雄『偏見から共生へー名古屋発・ホームレス問題を考える』風媒社、2003 年。とくに第7 章「支援と差別意識についての自己反省的ノート」を参照。また、「先輩」という表現を考える際には、もちろん様々な諸条件の差異をふまえなければならないが、野宿者(・支援)運動における「仲間」という文法や共同炊事などに示される協働の行為の意味とその変遷が参考になるのではないか。山北輝裕『路の上の仲間たち 野宿者支援・運動の社会誌』ハーベスト社、2014。『社会学評論』『ソシオロジ』等でなされた書評や、それへの山北の応答も参照。
5.小野沢稔彦「1968 年のドキュメンタリー映画最前線」(四方田犬彦・平沢剛編『1968 年文化論』毎日新聞社、2010 年、162-189 ページ)。
6.小峰ひずみ「対話と音楽」https://note.com/komiyayoshiki/n/n3b4af1ac03d5。
7.船本洲治『黙って野たれ死ぬな』共和国、2018 年。なお、寄せ場運動における、マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』の参照や「流動的下層労働者」規定の面では、プロレタリアートの本質を流動性と規定した哲学者・藤本進治の影響も考えられるのではないだろうか。藤本進治『革命闘争の論理』合同出版、1969 年。
8.「山谷」制作上映員会「ナレーション問題について」他。
9.野崎六助『亡命者帰らず 天皇テロル子供たち』彩流社、1986 年。80 年代における「転向」その他記述も参考とした。
10.中根光敏「失われた光景からー寄せ場とは何だったのか?」(狩谷あゆみ編『不埒な希望 ホームレス/寄せ場をめぐる社会学』松籟社、2006 年、19-55 ページ)。
11.マニュエル・ヤン「三・一一と負債資本主義時代における黙示録と踊る死者のコモンズ」(同『黙示のエチュード 歴史的想像力の再生のために』新評論、2019 年、83-115 ページ)。



[補足]この文章は2021年ごろ学生サークル誌に掲載。そのサークル誌について、なんかグダグダ付記を加筆していたが"言い訳がましい""無視すべき"との意見をもらったので消した。

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