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【4-0819】この世でいちばん難しいこと

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

今日は久しぶりの稽古だった。ひと月に2、3回のゆっくりペースでの稽古。稽古というか、ほとんど作戦会議に近いかもしれないが。こうやって、ゆっくりじっくり創作に向き合おうとしていると、今これはもしかしたらこの世で一番難しいことをしているのかもしれない、なんて思う。

普段、他人のこと、特に他人の思考についてはある程度のほどほどの距離感を保ちながら生きている、と私は思っている。よほど好きな人でない限り、その人の思考回路を紐解こうという気にはならない。その人が内心でどんなことを思っていようと、基本的には言動に現れている部分を受け取り、過ごしている。受け流していると言ってもいい。

受け流すというと聞こえが悪いが、要は「あなたはそう考えるんですね、了解です」くらいの、ボールを胸にワンバウンドさせるくらいの、受け取り方ということだ。「なぜそう思うの?」とか「それは何を意味しているの?」とかそういう深掘りは、繰り返しになるが、よほど好きな人でない限りしないし、そんな深掘りをしなくてもある程度のところでお互いに認め合って生活をすることは出来ると思う。

だけれど、創作の場合、共につくる人の思考回路を紐解いたり、逆に自分の思考回路に相手を招待したりして、共に手を取り合って迷子になってみることが必要になる。迷子になってから一緒に道を見つけ出していったら、その道がその人との創作作品になる。

普段、受け流したり受け流されたりしているところをあえて流さずに、いちいち立ち止まって、触って、ひっくり返して、さらにつまみあげたりするのだから、かなりイレギュラー。お互いに難易度が非常に高い。

そんな難しいことを、いつもしているのだなぁと改めて気付いた。もちろん、そのやりとりは言葉だけでやるものではないが、言葉になっていない相手の思考を自分の言葉の型に当てはめていって、自分の言葉で納得していくというのはとても手間のかかることだ。気が遠くなるほど。

でも、それが、誰かと共に創作することの旨みでもあると思うし、この世で一番難しいことの一つに挙げていいんじゃないだろうか、と思う。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴