見出し画像

【2-1219】下手の横好きも永遠ではない

【このnoteを開いてくださった貴方へ】


こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。


このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

「下手の横好き」という言葉がある。意味としては、「(ある物事が)下手なのに、とても好きで熱心である」というような言葉だ。「横」に「無関係の立場」「外れたところ」という意味合いがあるそうで。

あまり器用ではない私には、「下手の横好き」と言えそうなことが数多くある。でも、ここ数年で、「下手の横好き」も永遠に同じではないのかもしれない、と思うようになった。

例えば、これは今年になってからの出来事だけれど。

保育士の免許を取得するための保育士試験というのは、ペーパーに合格すると、二次試験に実技がある。音楽と言語と造形だ。音楽であれば、ピアノなどの楽器を弾きながら童謡を歌う。言語は素話、絵本などを使わずにお話を聞かせること。造形では、与えられる課題に沿って絵を描く。この三つから二つを選んで試験を受ける。

私は、ピアノが大の苦手。今、実際に保育園で勤務していても、そんなにたくさんではないけれど弾くタイミングがあって、そのために既存の楽譜から音を抜いて単音の楽譜にして、それでも途中で止まってしまうこともある。それくらい苦手。にもかかわらず、選んだのは音楽と言語だった。それくらい、絵を描くということが不得手だと自覚があったからだ。学生時代、図工や美術は、ほぼ授業態度だけで5をとっていた。実技的な面は、好きだけれど(そう、やはり好きではあったのだけれど)全く振るわず、だった。ピアノは曲がりなりにもやり方がわかるけれど、絵はやり方がわからない。そんなふうに思っていた。絵やイラストを描ける人が心底うらやましかった。

でも、あるとき、これは劇団で小道具を担当してきた影響が多分にあると思うのだけれど、今年一緒にクラス担任になった先生が「先生、絵上手いね」と言ってくれたことがあった。これは驚きだった。もちろん、保育園の製作物とか、掲示物とか、そういうものに添えるような絵、イラストだったと思うので、ちゃんとした絵とかデザインではない。保育園では、それをそれらしく(そう見えるように)描くということのほうが必要だ。「それをそれらしく」これはまさに今まで、私が小道具でやってきたことだった。

それから、私は絵(イラスト)を描くのを過剰に恐れる気持ちが少しずつ薄れていった。そうなってくると、もうあとは描くか描かないか、だけの話になる。もちろん、私の絵に高値をつけて売り捌くなんてことは出来ないし、うっかり買われてしまった日には即座に詐欺罪が成立してしまいそうなものだが、そうじゃない限りは、好きに描いて何かに添えたり、人に見せたりしてもいいかもしれない。そう思うまでになった。

「横」にいると思っていたものが、いつのまにか、自分の斜め前のあたりにふらふらと躍り出てきたような感覚。そのままいい距離感で、好きでいたらいいのだと思う。好きでいたからこそ、その物事が滑ってこちらまで来てくれたのだ。

下手でもいいから好きでいたら、ド下手からちょい下手くらいに変化していくことがあったし、それが味になったりするのかもしれない。そう思うと、下手の横好きは永遠じゃなく、人の呼吸に合わせるみたいに行ったり来たりしながら徐々に変わっていくのかもしれない、そんなことを考えている。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴