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【3-0225】説得力についての役者問答

【このnoteを開いてくださった貴方へ】


こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。


このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

今日は結論の出ていない問答を一つ。

それは、演劇における説得力というのは何によってもたらされるのか、ということ。

そもそも私が演劇(と呼ばれる、観客の目の前で役者が繰り広げるお芝居)という様式を好んでいるのは、それが虚構と真実味が絡み合った結果の産物だからだ。虚構は作為と置き換えてもいい。

みんなこれがお芝居だと知っている。あるいは、これは作り物なのではないかと怪しみながら見る、それが演劇だ。それは劇場にかかる芝居だけじゃなくて、例えば、日常の中でゲリラ的に行われるパフォーマンスも、結局は日常からの逸脱を感じさせることで、目を引くことに成功する。生の見せ物は多かれ少なかれ、そういう不自然さみたいなものを味方にしながら進む。

映画には「フェイクドキュメンタリー」「モキュメンタリー」というジャンルがある。これは本当に起きた出来事なのではないか、と思わせるような演出をされているものだ。モキュメンタリーではなくても、映像は、どちらかというと、観る側は視点などをある程度コントロールされていて、芝居の世界に没入する傾向にあるだろう。(映像のこと、あまり詳しくないので言及はここまでにしたい。)演劇は目の前に他の客の頭があったり、プロセニアム・アーチがあったり、現実的に視覚聴覚に「ここは劇場だ」という情報を受け取りながら観るのだから、そういう条件のお膳立てで没入する状態にもっていくのは難しい。

だけれど、逆に、問答無用で自分の目の前に呼吸をする人間が役として存在しているという、確かな事実に観客として抗えない、と思うところがある。例えば幽霊とか、宇宙人とか、そういう現実では見たことのない存在も、舞台上に立っているとその存在は確かにそこにある。宇宙人を信じるようになるとかそういうことではなくて、信じていなくても今そこに立っている宇宙人(役者)の存在は絶対的にそこにあるということ。その役者が説得力をもってそこにいれば、世の中には存在しないと言われているものでも、存在させてしまえる。それが演劇だと私は思う。どんなに作り物の世界だとわかっていても、紐解いていったときに最後に残るのは役者の実存だ。その虚構と真実味の相互に支え合う関係性が好きなのだ。

だけれど、今私が言った「その役者が説得力をもってそこにいれば、」というのが謎なのだ。その説得力ってなんなんだろう。お客さんとして演劇を観て、「ああ、この役者説得力あるわ」とか「この作品は説得力に欠ける」とか私も軽率に思うわけだけれど、実はあんまりこの「説得力」というものを説明することが出来ない。呼吸がその場に合ってるとか、そういうことのような気がするが、まだはっきりしない。

今日ちょっと思ったのは、説得力のある役者は、画を保たせることが出来るということだ。多分、立ち姿、呼吸、そしてもちろん台詞や表情、そういうところに情報がたくさんあるから、一人で立っていても心許なくないし、ずっと観ていられる。この、情報の過不足がない感じが説得力なんだろうか。

役者としての説得力は増していきたい部分であるから、こういう問答を逐一やって自分の中に気付きを溜めていっている。良き役者になりたい。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴