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【4-0703】もう一度

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。

関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

昨晩は火ゲキ30リーグを観に行った。観劇終わりには仲良しの演劇人と芝居のことから芝居以外のことまで色々語らって大変楽しい夜を過ごした。

そのときにはなかなかまとまらなかった思考が言葉に出来てきたので、それをまとめようと思う。



にほひ『止むな、嵐。』について。

最初に断っておくが、にほひの方々がどんな思いでこの作品を作ったのか、私は全く知らない。結局昨晩もにほひのメンバーと話すことはできなかったし、昨日語らったメンバーと同じく仲良しの演劇人だとは思うが、ここしばらく会うことも出来ていない。

なので、これはあくまで、私がこの作品をどう受け取ったかということに過ぎない。表現者のから私の元へやってきたこの作品がどう見えたか、という話だ。

葬式というのはなかなか独特な式だなと思ったのは、今年の3月のことだった。閏年の今年、2/29に祖母が亡くなった。3月1日に帰省して通夜葬式に参列してきた。

よく言われることではあるが、葬式は残された人が明日も生きていくための式だった。お別れをして、もう息はしていないその人に最後の最後まで、あるいはこれまでは何かしらの因縁があったとしても最後の最後には、心を尽くして。喪失で傷ついた心をそういう「最後にしっかりと見送った」という事実で受け入れていくような、慰めていくような、そんな場だなと思った。

あれを経験したからか、『止むな、嵐。』のシチュエーションにはすっと入っていけた。親族方々から「おばあちゃん」と呼ばれるような人が亡くなって、葬式も終わって、いよいよその人の生活があったはずの場所の片付けが始まる。捨てただろうと思っていたものがどんどん出てくる。

その中には、美咲が小さい頃に買ってもらって、その日に首をもいだくまのぬいぐるみ(ゴロー)もあった。もいだはずの首と胴体が縫い目も見えないほど綺麗にくっつけられた状態で。

私が想像するのは、首のつながったぬいぐるみを写真の中に見つけた時の美咲の気持ち。すごく嫌だったろうな、首がつながっていて。

亡くなった人のことを悪くいうもんではない、というか、死んだら良い人に思えてくる、みたいな感情の昂りの存在って、今まで生きてきて私は結構感じてきているのだけれど(それは例えば「思い出は美しく見える」みたいなこととも通じていると思うんだけれど)、それのピークが葬式だと思う。この作品は葬式も済ませたあとだ。いとこたちの中では、おばあちゃんはもういい思い出になり始めている。

でも、嫌いだった。美咲は嫌いだったのだ。ゴローの生首事件は、美咲に確固たる反抗であり、犯行であったわけで。大っぴらに話すことでもないけれど、葬式で泣かなかった美咲の心は今そこにいただろう。なのに、何事もなかったかのような顔をして現れるゴロー。あの頃、どれだけおばあちゃんが美咲を傷付けたか。美咲がどれだけおばあちゃんを嫌っていたか。全てなかったことにされている。なかったことにしてんじゃねーよ、と私は思う。

だから、もう一度首をもいだのかなと私は思った。美咲はおばあちゃんのことが嫌い。嫌いだった。そのことをちゃんと認めるために。それはそれでいいとこの世に残しておくために。

首をもいだあと、その二つに分かれたゴローを夫が引き受けようとしたとき、美咲が少しだけ抵抗してから手を離すシーンが、とても良かった。正直、観ていた私はあれで結構満足した。あのゴローを手に取るのが、春子でもなく、はとこの姉妹でもなく、夫なのもよい。血縁じゃなく、自分で縁を結んだパートナーにあれを引き受けてもらえるということ。

ある意味で最高のタイミングで終演して、ほっとした。いい読後感。

これが、にほひ『止むな、嵐。』に対する私の感想。昨日はまだまとめきれなくて、お喋りの中には組み込めなかった。好きなお話だったけど、勝負には負けてしまったらしい。にほひの本公演でじっくりやってくれたらいいのになぁ。そんなバージョンも観てみたいと思った。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴