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【0427】世界はどこか

こんばんは、要小飴と申します。

だいぶ前のことなので、ちょっと記憶が曖昧ではあるのですが、実写版の『美女と野獣』を観ました。よく考えてみると、実はアニメの『美女と野獣』は一回見たことがあるかどうか、でした。もちろん、大筋のストーリーは絵本などで知っていましたが、小さい頃、野獣がガストンと町の人に襲われるシーンが怖くて繰り返し観ることができなかったように記憶しています。(だから、きっと一回は観たことあるのでしょう。)

さて、実写版の『美女と野獣』ですが、

とにかく、エマ・ワトソンのベルが美しくて。音楽も映像も美しくてとても楽しみました。

お話も、実写化でよくあるオリジナリティを無理にねじ込んだ展開はなく、アニメやこれまで聞き知ったストーリーになかった部分も、本筋を骨太にするための要素だったと思います。

「二人はいつまでも幸せに暮らしました」というエンディングに向かうストーリー。でも、実は見始めたすぐのあたりでは、そのことに違和感を感じていました。

というのも、エマが演じるベルは、それまでのベルと同じく、父親思いで本や空想が好きな女の子でしたが、それだけでなく、自分で洗濯機を開発したり、機械いじりもする賢くて行動的な面が際立っていました。彼女は外の世界(ここの表現が記憶が曖昧)を見たいと願っています。そんな彼女が、ある意味でお姫様の伝統的な幸せとも言える、王子である野獣と愛を育み結ばれるエンディングを迎える、というのが不思議に思えたのです。これこそ、エンディングを知っているからこその違和感ですが。

しかし、今思えば。世界を見たいと願っていたベルは町で変わり者扱いされていました。良かれと思ってやったことも、理解されず、批判される環境。

ベルにとって世界とは、彼女を変わり者扱いして理解をしようとしないこの町の外。今と違う可能性のある場所だったのだろうと思うのです。自分のことをまっすぐ受け入れてくれて、また自分も相手を理解したいと思える、そんな関係性を、彼女は欲していたのかもしれません。

ベルは野獣と過ごすうちに、彼のことを理解したいという気持ちを育て、彼が自分を慮ってくれていることを感じとっていました。

たしかに、相手が理解を示してくれるということは、本当に心を強く、そして自由にしてくれます。人生のうちで、親でも、友達でも、パートナーでも、そうやって理解を示してくれる人に出会えるということは奇跡です。私が自由に生きられる世界は、その一人一人によって形取られています。

そんなことを、観終わってしばらくしてから考えました。観終わったあとは、作品の素晴らしさで心がいっぱいでしたけれど。ディズニープリンセスは、強く優しく美しい。それは、きっと何かを望み、得ようとして、本当に手に入れるからだと思います。

それでは、今日はこのへんで。

また明日!

要小飴🍬



いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴