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【0822】雷の響き

こんばんは、要小飴と申します。

昨日今日と、突然の豪雨とともに雷が鳴り響いています。昨日なんかは、職場のある地域では空は明るいのに、ものすごい勢いの雨が降り、そのうちに雷も鳴り出しました。しかし、一時間ほどすると、すべておさまり、何事もなかったかのような夕暮れになりました。不思議な天気。

現代では、劇場や映画館で大音響を浴びることが一つの楽しみになったりもします。しかし、そんな文化がなかった昔の時代には、雷の音ってものすごい衝撃だったんだろうなぁ、と今突然鳴り出した雷を聞いて思いました。

余談ですけれど、関西に出てきて一番最初に小劇場の芝居を観たときの感想は「音響が大きい」でした。大学時代唯一経験したことのない部署が音響だったので、詳しいことはわからないのですが、とにかく地響きを感じるほど音が大きくて驚いた記憶があります。感覚器官によって刺激の受け取り方って様々です。私の感覚的には、視覚で受け取る情報は受け取る前に濾過するフィルターを通すことが出来るイメージがあって、目で見てこれは何と捉えてから受け入れる、みたいなことをしていると思います。それに対して、私は耳からの情報はそういうフィルターを通すことが難しくて、耳から直接脳や心に伝わる(伝わってしまう)ので、恐ろしく感じます。ん、なんかネガティブな言い方をしているけれども、だから、どんな媒体で見るにしても、お芝居やドラマ、映画、アニメーションも、音響の魔法がすごく作用していることを感じるし、その魔法の力って魅力的だと感じています。

なんか余談の方が長くなってしまう。そんな魔法のない時代には、この雷の響きはこの地球に鳴る一番大きな音だったのだろうと思うのです。「神鳴り」の言葉もうなづける。

この雷の響きに驚くような、恐れるような、そんな感覚は、人間はもう持ち得ないのかもしれません。そのことが良いとか悪いとか、残念だとかそんなことは現代を生きる私にはわからないことなんだけれど、ただ失われたかもしれないとは思います。

昨日テレビで『コクリコ坂から』が放映されました。私はこの作品で、学生たちに恐れるものや敬うものがあるということがとても良いなと思っています。大人や体制側の力は大きく、それを恐れるからこそ、反発したり、うまく裏をかいたり、敬ったりする。それが今とは違う少し昔の時代ならではの、人々の感覚だったということだと思います。好きな人が兄妹かもしれないということを本当に恐れることも含めて、あの作品には恐れることを原点とした人間の活力がある様な気がしているのです。その時代と今の時代を比べてどちらがよいか、なんてことは、今を生きている私にはわかりませんし、それは縄文時代と弥生時代を比べて、どっちが良かったかというのと同じことだと思います。それぞれの特色はあり、変化もあるけど、そもそもこの日からパキッと何か分けられますということもなく、歴史の中でそう色分けされているだけのことであって、どちらが良いとかありますか。少なくとも私の中ではないでしょう。

なんか、雷の話題から大きく逸れましたが、まあ、こんなことをつらつらと考えられるのも、休日ならではです。ここまで読んでくだってありがとうございました。

それでは、今日はこのへんで。

また明日!

【今日の自撮り】よく寝たの顔

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要小飴🍬

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴