見出し画像

【4-0420】愛されてるかい

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

今日のお昼時、とある飲食店に行ってお腹がはち切れるくらい食べたのだけれど、そのお店の女子トイレのドアの内側に落書きがあった。ちょうど鍵の横。便座に座って正面の、絶対に視界に入るところに、You are lovedとピンクのマーカーで書かれていた。そのすぐ横には読みやすいゴシック体で印字されたお願い文が掲示されていたので、たぶん店側の装飾では無いだろうと思う。

You are loved. -あなたは愛されている。どんな気持ちで書かれた落書きなんだろうか。何か楽曲とか本とかのタイトルというパターンもありえるなと思いつつも、飲食店のトイレの最中に、目の前のドアに「あなたは愛されている」って書く人のことを思い描く。

あなたっていうのは、結局「私」のことなのか。それとも、「私」が愛している「あなた」がいるのか。相手が「自分は愛されている」と感じてくれているかどうかは、言動や表情から推し量るしかなくて、「愛されているんだよ」って語りかけることは時に無意味だったり、逆効果だったりする。「愛されているんだよ」よりも「愛しているよ」のほうがまだスタンスが明確で受け入れやすいように私は思う。

いや、でも、誰かもう一人、「あの人」がいて「(私はあの人に愛されなかったけれど)あなたは愛されている」というパターンもある。心中如何だが。

そもそも、飲食店で用を足しているときにピンクのマーカーを持っている状況ってなんだ、などと思ったりもする。

日々の中で「愛されている」と感じられることは幸せなこと。愛と言うとなんだかとても尊大に感じるけれども、結局は今この瞬間に大事にされている、慈しまれている、ということでいいのじゃないかと思う。その瞬間が積み重なったら「愛された過去」になるし、未来については正直に言って永遠なんて約束されないものだ。それはどんな関係性においても。親子という関係ですら、刻々と変化するものなのだ。だから、大切なのは今。手の届くこの瞬間だけ。

小さな人にも大きな人にも、相手に「愛されている」と感じてもらえるような人間になりたいなと思う。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴