見出し画像

【4-0620】出来ないを考える

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

一週間も後半になってくると、日々の反省(と言えるほどしっかりしたものではない、気持ちのカスみたいなものだけれど)が溜まってくる。いつも、「あ〜、出来ない」と思っている。

この「出来ない」についてなのだが、最近物事はこうかもしれない、と思っていることがあるので、今日はそれをまとめる。

「出来ない」という言葉を見ると、自動的に「出来るようになるといいね」「いつか出来るようになるよ」という返答が自分の中に用意される気がする。これは出来ないことがよくないことで、出来ることが望ましいことだという、強固な思い込みがあるからだろう。

でも、人生というのは、そんなに全般的に「目標があってゴールがある」というスタイルになっているわけではなさそうだ、ということに最近気付いた。本来、「出来ない」から「いつか出来るようになるよ」の間には、あるいは「出来ない」の前段階には、「出来るようになりたい」があるのだと思うけれど、日々の中に「出来るようになりたい」ことなんてそんなに存在しない。出来るようになりたいと思っていようがいまいが、出来ないことは出来ない。

出来ないは状態ではなく、状況なのだ。「状態」にはその状態の持ち主がいるが、「状況」には持ち主はいない。「状況」にいるのは観測者だ。客観的にどうかという認定をする。

だから、「出来ない」という言葉のニュアンスで落ち込むのではなく、それが自分にとって「出来ていたい」と思うことかどうかを精査する必要がある。「出来ていたい」事柄であれば、「出来ない」に多少落ち込むだろうが、それにより成長が促されて「出来るようになる」かもしれない。

「出来ていたい」と思っていなかったり、他人から明確に「出来てほしい」と思われたりしていないことは、「出来ない」状況だった場合は、切るか置いておくしかない。これは成長だけでなく、他の色んな要素のかけあわせで、次の機会には違う結果になるかもしれない。それをただ冷静に眺めていく。

「出来ない」も「出来る」も過度に落ち込まないで、状況を淡々と受け入れることが必要なのかもしれないな、と最近思う。少し前にも書いたけど人生には審査員はいない。自分が丸をつけられるように、まずは状況をよく観察していくことから始まるんだろう。


いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴