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【2-1030】言葉から立ち上げるものは

今日はツレヅレさんの『ともだちが来た』を観た。

この公演への感想とはまた別に、思ったことがあったので、書き留める。

それは、言葉から立ち上げるイメージというものは、やはり人によって違うのだろうということだ。至極当たり前のことなのだけれど、これをよく忘れてしまう。

例えば、高校と大学。私は長崎県佐世保市出身で、高校までは佐世保にいて、大学進学のタイミングで岡山県岡山市に一人暮らしのアパートを借りた。だから、私にとって高校時代と大学時代には大きな分断があって、大学進学からの一人暮らしという人生のイベントは私の生活を180°とは言わないまでも90°以上、つまり地元のことは、前を向いていれば視界の端にすら全く入らないくらいに、変化させた。私の性格が極端なこともあるのだが、田舎からある程度離れた、言葉の訛りも違う場所の大学に進学した人には、少なからずそういう分断があるんじゃなかろうかと思う。

一方で、私の親戚筋や知人たちにも実家から大学に通った、という人もいる。あるいは、一人暮らしはしていても実家に帰るのにそんなに時間を要さない距離の人も。そういう人たちにとって高校時代と大学時代に私が感じるような「分断」はあるのだろうか。

私にはわかりえないことではあるが、なんとなく感覚的に同じではなさそうだと思っている。そりゃあ、全く同じ感覚の人なんて、よくよく考えると地方出身組でもいるはずがない、という身も蓋もない結論ももちろん出した上でだが、言葉をコミュニケーションの道具として頼っている私たちはその感覚の差異を時々忘れてしまう。違いばかりに目がいけば、安心してやり取りが出来ないから、それはある程度、度外視するので良いと思う。

それで、だ。演劇を作るときには、その差異にこそ、創作の肝があるように思う。脚本は言葉で完成されている。その言葉が自分にとってどういうイメージなのか、ということを、演出家も役者もそれぞれがそれぞれで表現していく。役者には演出家の言葉も足されて、さらに多くのイメージが立ち上がる。

今、イメージしてみたのだけれど、四角い部屋の中に大きな大きな風船がいくつも膨らんでいくような画が浮かんだ。脚本の言葉から立ち上がるイメージと演出家が言った言葉から立ち上がるイメージ、その一つ一つが風船になって、部屋の中を満たしていく。すごく漫画的なイメージだけれど、役者はその風船にポインと弾かれて、だんだんとこれという立ち位置に誘われていくようだ。イメージしているのは役者本人なので、風船に当たっても痛くはない。ただただ、ポインと跳ねるだけだ。

こんなこと書き連ねても、読んでもらう人には何のこっちゃだと思うけれど。

だから、何の話かと言うと、例え、誰かの言葉通りにしたとしても、やっぱりそこにその人らしさというものは乗ると思う。乗ってしまうと言ってもいい。それを「乗ってしまう」ではなく、「乗せる」にするのが楽しいだろうな、などと考えながら帰ってきた。

(余談だけれど、↑の「乗る」という字がこれでいいのかわからない。「上乗せする」という意味で、上乗せがこの字なので、多分これでいいと思うのだけれど。)

ツレヅレの公演に出ていた役者さんは二人とも素晴らしかった。この人たちの出演作が沢山観れるといいなと思った。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴