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【4-0322】開けてもらえなかった桃の缶詰

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。

関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

もうずっと前から気付いていたのだけれど、なんだかんだ言って桃が好きだ。ちょっと具合が悪くなったときには、桃のゼリーを買ってきてもらったりする。先日、差し入れにもらったHARIBOが桃味だったのだけど、とても美味しくてちょっと感動した。

なんでこんなに桃を欲するのかというと、小さい頃の記憶が関係しているように思う。私が小さい頃、まだお中元とかお歳暮とかそういう贈り物の文化が、根強く生きていた。そういう贈り物に缶詰はよく選ばれていたような気がする。絶対に自分たちでは買わないはずだが、うちの家にも桃の缶詰らしきものがあった。

小さい頃の私はおやつに飢えた子どもだったので、桃の缶詰なんてものは食べたいに決まっているものだった。けれども、缶詰というものは保存食であって、よっぽどのことがない限り開けてもらえなかった。いや、いつかは賞味期限が来るのだろうけれど、本当に桃の缶詰を開けた記憶はほとんどない。私の記憶の中にある桃缶の期限が私が眺めていた時点で過ぎていなかったかも、今となっては確かめようもなく。もしかしたら、期限がとっくの昔な過ぎてただのオブジェと化したものだったのかもしれない。しかしながら、とにかく私は、その缶のラベルに描かれた桃の産毛を想像しながら、結局その中身にありつくことはなかった、気がする。

大人になった私は、正確にいうと、実家を離れた大学生時代から、なんとなく桃味のものを気にしながら過ごしている。好きな果物は?と聞かれて桃と答えないのは、いまだにやはりそんなに縁がないと思っているからかもしれない、と思う。

つまり、若干の憧れみたいな気持ちから、桃味を楽しんでいるのだ。手に入らない憧れ。そういえば、昔、ネクターについての文章を書いた。

これにも、「手に入らなかった」という残念さへの共感を書いている。

やっぱり私にとって桃というのは欲しくても手に入らないものの象徴なのかもしれない。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴