【4-0630】忘却のかなた
本当は今週末は先輩方の本番やら、知人のイベント本番やらあって、行きたい気持ちは大きかったのだけれど、不義理をした。先週末あたりからまた喉をやってしまって、ふとした時に咳が止まらなくなるので、いわゆる「本番」というものに立ち会うのに非常によくない状態なのだ。なんだかスケジュール調整がうまくいかず、頼みの病院にも行けてなくて、詰んでいる。火曜日には30×30を観に行く予定なので、どうにかおさめないといけないのだが。だから、今週末は好きな人とご飯を食べるだけにして、一旦心と身体を癒す週末にした。
そんな徒然なことも書き残しながら、今日は最近怖いと思っていることを。
それは、なんだか色んなことを全く覚えていないということだ。昨日のnoteにも少し書いたのだけれど、何か記録を残しておかないと、何も覚えておけない感じがする。
具体的なことを言うならば、去年、一昨年にどんなことをしていたのかということがまるっきり思い出せない。2、3歳の頃の記憶と同じように、自分視点のビジョンみたいなものはスライドショーみたいにいくつかあるのだけれど、もっと細かいことを思い出そうとすると、霧散していってしまう。
昔から目の前の物事の優先度が高すぎる人間ではある。過去からのつながりを(そんなつもりはなかったが)ぶった斬って生きてきてしまった。小学校から中学校に上がったとき、中学から高校に上がったとき、高校から大学に上がったとき、岡山から大阪に出てきたとき。場所を移って会わなくなってしまった人に、能動的に会いに行こうとしたことがほとんどない。だから、思い出は永遠だが、その人たちとの時間はそこで止まってしまっている。(そう考えると、今、私が元の所属劇団との関係をある程度保てているのは、奇跡なのかもしれない)今まで私はそれを物理的な距離の問題だと思っていたのだが、今度は距離だけじゃなく、時間の隔たりをもぶった斬るようになってしまったのか。
怖い。何も思い出せない。というか、何も覚えていない。覚えていようと思わずにきてしまったのだと思う。覚えておくことに意味を見出してこなかったのだろうか。うん、そんな気がする。
意外と、ただ覚えておくことには意味があるようだ。マス目が埋まっていくような感覚。そのマス目が後から役に立つかもしれないし、立たないかもしれないが、まずマス目が埋まっているということに安堵がある。
こうやって、何も覚えていないということにショックを受けないと覚えていようという気にならないのだから、困った人間だ。忘却のかなたにあるものはもう取り戻せないが、せめてこの日々がそちらに吸い込まれないように、一つ一つをまず覚えていようとしてみようと思う。
いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴