「五つの穴と遅刻勇者」第1話


再生歴301年。
『王都セントラル 繁華街』

 人類と魔族……。その長きに渡る戦いは勇者一行の登場によって終わりを迎えた。人々に訪れた束の間平和。

 ――バキッ!

 世界で最も大きな国セントレアの王都であるセントラル。その繁華街には沢山の人たちが楽しそうに集まっていた。
 魚のサンドを食べる男、鉄の剣を眺める冒険者、袋に詰まった薬草を並べる商人、白い鎧に身を包んだ強そうな金髪の男もいる。

 ――バキッバキッ!

 その大きな音に数人が反応した。

 ――バキッバキッバキッ!

 サンドを地面に落としながら、男が指を差す。王都セントラル。その遥か上空。そこに……。

 大きな亀裂があった。

 上空の何かに亀裂が走っている訳ではない。空その物にそれはあった。皆がそれに気付いた瞬間。

 ――バリーンッ!!!!

 一際大きく不快な音がセントラル全土に響き、亀裂があった青い空に……。

 ぽっかりと黒い大きな穴が空いていた。

 繁華街にいた女性が髪のなびく方向を見ている。その目線に皆が気付いたと同時、薬草が勢い良く飛んだ。サンドに鉄の剣、重たい物も動き始めるのを見て叫びながら皆が逃げ始める。
 だが、走ろうが何かに縋ろうが、人も物も全てがその穴に吸い込まれていく。
 何とか助かろうと白い鎧を着た金髪の男が地面に剣を突き立てるが、穴に呑まれる人間はどんどん増えていく。建物は飛ぶ凶器に変わり、人間を簡単に圧し潰して殺す。

 人や建物が飛び交い、生と死と、悲鳴と怒号がない交ぜになったその光景は、地獄と呼ぶに相応しい光景だった。

 そして……。

 世界で最も大きな国セントレア、その王都だったセントラル。そこに住んでいた筈の1000万人以上の人間は10分もしない内に上空の大きな穴に呑み込まれ、消滅した……。

 最後に残ったのは、地面に突き刺さったまま主を失った悲しそうな剣1つだけだった。


再生歴316年。
『セントレア辺境の村 ホープ』

 ――カンカンカン!

 エプロンをした銀髪の快活そうな少年が、おたまとフライパンでリズムを刻む。
 その目的は1つ。起床時間を無視して寝続ける母を起こす為だ。

「うーん、あと10分」

「さっきもそう言ってただろ」

「じゃあ、あと1時間!」

「何で伸びてんだよ!早くしないとじいちゃんとばあちゃん帰ってくるぞ」

「えーー!大丈夫、大丈夫。だからもうすこ、しっ!?」

 大丈夫と言っていた女の頭に魔石が付いた小さな杖が乗る。

「何が大丈夫じゃって?」

「じいちゃんおかえり」

「いや、それは……っ!あちっ!起きるから!杖に魔力を込めるのを止めて!髪が!」

 女の綺麗な赤い髪から、うっすら焦げた臭いが漂い始める。

「ホープもこやつになど憧れず、儂のような魔道士にじゃな」

「誰がこやつよ!ホープはねぇ!大魔道士である私に憧れてるのよ! ねぇー?」

「は、ははっ」

「何で苦笑い!?」

 ホープと呼ばれた少年の母。彼女はこの世界に4人しか存在しない大魔道士であり、16年前に人類と魔族の長い戦いを終わらせた英雄達、勇者一行の1人だった。今も一線で戦い続ける母を彼は尊敬している。

(僕もいつか母ちゃんみたいな大魔道士に)

「うーん。おやすみぃ」

「いつまで寝てるんじゃ!」

 目の前で祖父に怒られながら、三度寝をしようとする母に少年は憧れていた。

(憧れ……いや、憧れてるよね?)

 少年は自分の気持ちに不安になった。

「あらあら、お父さん怒りすぎですよ?」

「す、すまん」

「ばあちゃんお帰り」

「ただいまホープ。はい、卵と牛乳」

「ありがとう。固さは二人ともいつも通りでいい?」

「おぅ! 全くホープと違って何でお前はこう……」

 そう言いながら厳しい顔付きの男がどっしりと椅子に座る。

「まぁまぁ、ノノアは昨日も大変でしたし」

 男とは正反対の優しい微笑みの女性がゆっくりと椅子に腰掛けた。

「しょうがないじゃない!だって」

「あっ、こら母ちゃん、やめ」

 ノノアと呼ばれた女は、2人分のパンを運んできた少年を引っ張り、優しく抱きしめる。

「うちの愛する息子が、こんな立派に育ったんだから!」

「むっ……!恥ずかしいからやめてよ」

 笑顔で高らかにそう宣言する母を見て照れる少年だったが、その顔は何処か嬉しそうだった。

 こんがり焼いたパン、サラダ、ベーコンに、さっきの卵で作った目玉焼きが人数分並んだテーブルを皆で囲む。

「それじゃ……」

「「いただきます!」」

 それぞれがご飯を食べ始める。固めの目玉焼きを一気に頬張る者、半熟の黄身を崩してバターを塗ったパンに乗せて齧り付く者。まだ眠たいからなのか、頬張ったパンを殆ど膝の上に溢す者。

「ほんひょ、ひょーぷのごひゃんは最高だわ」

「そうじゃのう」

「ありがとう。あと、母ちゃんはちゃんと飲み込んでから喋って?」

「うーん、おかわり!」

「儂も!」

「ちょっと待ってて」

「私も手伝うわ」

 少年と優しい顔付きの女性がキッチンに並んで立つ。

「そういやホープ、来週いよいよ15歳じゃが何か欲しいものはあるか?」

 ベーコンをむしゃむしゃと食べながら、キッチンにいる少年に男が問いかける。

「あの小さかったホープがもう成人だなんて、感慨深いわぁ……」

 少年の隣で頬に手を当てながら、優しい顔の女性は瞳をうるうるとさせている。

「ちょっ、ばあちゃん泣かないでよ」

 ハンカチを差し出しながら、少年は考える。

「大事な日なんだから、遠慮しなくていいのよ?」

 サラダに入ったトマトをホープの皿に避けながら、ノノアがそう優しく問いかける。

「大事な日って言うけど、それは母ちゃんにとってもだろ?同じ誕生日なんだし」

「まぁ、そりゃそうだけど」

「母ちゃんの15歳の日はどんな感じだったんだ?」

「私は、うっ!」

 ノノアは何か嫌な思い出でもあるのか、眉間に手を当てながら辛そうな顔をし始める。

「確かやけ酒をして勢いで山を登ったんじゃったか?」

「勢いで山を!? 母ちゃんっぽいな」

「そうそう。そこで……」

「そこで?」

「……いや、何でもない! というかお父さんその話はしないでって言ったでしょ!ただでさえ初めてのお酒がやけ酒だったってのも恥ずかしいのに」

「苦手なトマトをホープの皿に移してる奴が何を今更恥ずかしがる」

「ぐっ……。と、とりあえずホープは遠慮しなくていいからね?」

「ありがとう。分かったよ」



(でも……)

 少年は考える。彼には本当に欲しいものがなかった。厳しい祖父に、優しい祖母。そしてだらしない所も多いけどカッコいい母。
 そんな4人で暮らす毎日が楽しくて仕方なかった。それに……。

「おっ、ホープおはよう」

「カササイさんおはよう」

「ホープおはよ~」

「ノソイさんおはよう」

「ホープほらこれっ!」

「あっ、ケスリノさんリンゴありがとう!」

 飛んできたリンゴを受け止めながら、少年は村の中を歩いていく。
 彼はこの村の優しい人達が、そして自分と同じ名前の穏やかなこの村そのものが、本当に大好きで仕方なかった。だからこそ、今が幸せな彼には何が欲しいかと問われて即答出来なかったのだ。

 こんな幸せがずっと続けばいいと、彼は静かに願っていた。

 いや、少年は何処かでこの幸せは続くものだと勝手に思い込んでいたのだ。
 それを壊す何かが近付いている事にも気付かずに……。



「おっ、やっと来た!」

「遅いよホープ」

 村の入り口で元気そうな男の子と、可愛らしい女の子が少年に向かって手を振っている。

「ジャス、トゥルー、待たせてごめん!」

「いいよ、いいよ!ホープも来たことだしさっさと行こうぜ!」

「今日はどこに行くの?」

「そうだなぁ……。今日の探検はビリーブ山の方の森に行くか!」

「村の人が言ってたけど、確かそっちにギガグリズリーの痕跡があったんじゃ?」

「まぁ、俺らならグリズリーぐらい大丈夫だろ」

「でも……」

「ホープは臆病だな。何かあったら俺らが守ってやるって」

「……」

 不安そうな顔をする少年。そこに……。

「ホープ!」

「母ちゃん!?」

「また探検?」

「う、うん!母ちゃんはクエスト?」

「そうよ。大したクエストじゃないから午前中には帰って来るね。ジャスくんと、トゥルーちゃん?」

「は、はい!」「はい!」

「いつもホープと仲良くしてくれてありがとうね。これからもこの子をよろしく」

「はい!」「勿論です」

 笑顔で微笑む彼女。大きな赤色のとんがり帽子に、身に纏うは赤いローブ、手に持った大きな青い魔石が付いた杖は鉄で作られた特別製に見える。

「じゃ、私はこれで……あっ、ホープ?」

「うん?」

 彼女は少年の耳元に近付いて周りに聞こえないように呟く。

魔石がないと魔法は使えない。この意味分かるわね?

「わ、分かってるよ」

 彼女は最後にそう言った後、綺麗な赤色の髪をなびかせながら杖に乗って飛んでいった。

「やっぱりノノアさんってカッコいいよな」

「カッコいいより、綺麗でしょ」

(さっきまで寝巻きのまま三度寝してたとは言えない)

 その三度寝巻き大魔道士が飛んでいった先には、不自然に地面が半分以上抉れた小高い丘があった。

「……」

(やっぱり母ちゃんって凄いな。僕も……)

「よし!探検に行こう!」

「ホープ、急に張り切ってどうしたんだ?」

「何でもないよ!はやくはやく!」

 そう言いながら、少年は誰よりも先に村の入り口から外に出る。

「あっガキども!暗くなる前には帰ってこいよ? じゃないと……」

 子どもたちに気付いた、入り口近くの見張りが手を振りながら叫んでいる。

アナザーが来るぞ!」

「分かってるって!行ってきます!」

 少年たちは森の中に探検に出ていった。



「いい加減子ども扱いは止めて欲しいよな」

 ジャスと呼ばれていた男の子が愚痴を吐いた。ケスリノさんから貰ったリンゴを皆で食べながら、森の中を子ども達が進んでいく。

「仕方ないよ。私たちまだ14歳だし」

「でもさぁ、近くに穴もないのにアナザーが出るわけがない事くらい俺らでも分かるって」

「きっと、僕らの事を考えて言ってくれてるんだよ」

「まぁ実際の話、私たちが産まれてから今まで、ここら辺でアナザーが出たことはないみたいだけどね」

「だろぉ? それならまだグリズリーが出るって方が……」

「待って」

 銀髪の少年が、2人を止める。その声音は真剣だった。

「見て」

 少年が指差したのは地面と近くの木だった。そこには大きな足跡と、爪痕がある。

「これギガグリズリーの痕跡じゃない?」

「もうこんな村の近くまで来てたんだな」

「一度引き返して村の人に」

「待てホープ」

「え?」

「こいつ俺達で倒そう」

 ジャスがニヤリと笑う。

「でも……」

「大丈夫だって!俺らはホープ村の子ども達だぜ?」

「……」

「お前だってノノアさんに良いところ見せたいだろ?」

「そ、それはそうだけど」

「行くぞ!」

「待って!」

 目的の存在は5分もしない内に見付かった。茂みの中から3人の子ども達は様子を伺う。

 丸みをおびた耳に厚い毛皮に覆われた体。子ども達が皆で肩車しても届かない背丈に、胴の太さは子ども達の近くにある木よりも遥かに大きい。今はその丸太のような腕で木に登ろうとしている様だ。そのグリズリーの近くには人間の大人ぐらいの大きさのギアウルフ5体が死んでいた。

「ウルフをあんなに? や、やっぱり引き返そう」

「大丈夫だって!ホープが音を鳴らして引き付けろ。その間に左右から俺とトゥルーで魔法を撃つから」

「でも……」

「あれ倒したらノノアさんもびっくりするぞ」

「……わ、分かったよ。2人とも気を付けて」

「ホープお前もな」

「ホープ後でね」

 2人が慣れた動きで、左右に分かれていく。後はタイミングを待つだけだ。

(今だ!)

 ――ガサガサッ!

「グルル!」

 音に反応したグリズリーがこちらを向く。同時に左右から小さな魔石が付いた杖を持ったジャスと、トゥルーが飛び出した。

「フレ……!」「アク……!」

 ――ザンッ!!

「えっ?」

 飛び出した2人が呪文を唱えるより先に、何かを切り裂くような大きな音が響く。ドスンという重い音鳴らしながら、ホープの目の前に落ちてきたのは……。

 ギガグリズリーの上半身だった。

「ひっ!」

 勿論、左右で驚いて動きを止めている2人がやったのではない。それを行ったのはグリズリーが登ろうとしていた木の先にいる存在だった。

「嘘……でしょ?」

 最初に呟いたのはトゥルーだった。その視線の先には、グリズリーと一緒に両断した大木を軽々と投げ捨てる何かがいた。

「アナ……ザー……?」

 ジャスが震えた声で言葉を出す。体の大きさはグリズリーの半分にも及ばない。一見二足歩行する小型のドラゴンの様にも見えるが、それは、黒い鎧のような表皮で全身が覆われており、体の至る所にある溝が青白く発光していた。

「ギッ?」

 それが子ども達に気付く。黒い鎧の隙間から見える赤い鋭い目が3人をはっきりと捉えた。

「ギルルルルルル!!」

 雄叫びを上げるアナザーと呼ばれたそれは、喜んでいるのか、溝の青白い発光がより輝きを増していた。

「これが……アナザー?」

 ホープが呟く。母から聞いたおよそ15年前に起きた空間災害の話。空中に出来た巨大な穴、それだけでも沢山の犠牲が出たが、問題はその後にも続いた。

 穴の先から現れた、人類でも魔族でもない第三の存在。
 アナザーと名付けられたそれは、人類の力も、魔族の力も、どちらも遥かに凌駕した怪物だった。
 そこから、人類と魔族は目の前にいるこの化物達と今もなお戦い続けている。

 少年がそんな事を考えている間にも、ドスンドスンと大きく、軽快な足音を立てながら、アナザーは子ども達に近付いている。

「何でこんな所にアナザーがいるんだよ!」

「ホープ逃げて!」

 ジャスとトゥルーが口々に叫ぶが、ホープは尻餅をついたまま動けない。大人達から聞かされてきた化物。彼にとって見たことのないそれは物語の中だけの存在の筈だった。その化物が今、目の前にいる。
 グリズリーを大木ごと軽々切り裂いた血塗れの鉤爪をガシャガシャと動かしながら、一歩また一歩と距離が縮まっていく。
 やがて、それはホープの前に止まり、その血塗れの鉤爪で……。

「ギルルルルルル!!」

「ひっ!」

「火炎(フレイム)」「水流(アクア)」

 アナザーに炎の弾と、凝縮された水がぶつかった。少年の前にジャスとトゥルーが庇うように立つ。

「逃げろホープ!」

「で、でも……」

「バカ野郎!お前じゃ役に立たない」

「ホープは逃げて村の大人達を呼んできて」

「……」

「大丈夫だ!俺らはホープ村の子ども達だぞ? 分かったらさっさと行け」

「き、気をつけてね!」

 背中を押されて少年が走り始める。背後で魔法が飛び交う音を聞きながら、少年は村に向かった。



「はぁ……はぁ……はぁ!」

 少年が歯を食い縛りながら森の中を必死に走る。友と一緒に戦えない自分の力のなさに、その友を置いて大人を呼びに行くことしか出来ない悔しさに、そして何よりも逃げろと言われた時に自分の心に浮かんだある感情に少年はショックを受けていた。

「はぁ……はぁ……。見えた! 誰か!」

 村の入り口。そこにならさっきの見張りの大人がいる筈だ。村の中に駆け込む。

「誰か! 何で!」

 そこには誰もいない。いつもならここで村人何人かが狩りの準備や、談笑していてもおかしくない時間だ。

「そうだ、見張り台!」

 梯子を上って村の中を確認すれば、直ぐに村人の1人や2人見付かるは……。
「ひぃっ!!」
 少年は思わず梯子から手を離しそうになる。見張り台の上には血溜まりが出来ていた。
 
「何が……?」

 そこでホープは気付いた。村全体が何か騒がしいことに。急いで駆け上がり、村の方を確認する。

「そん……な……」

 黒い鎧のような化け物。それが村中の至る所で暴れていた。
 
急いで見張り台から下り、震えながら少年は考える。何人かの村人が戦っているのは上から確認出来た。

(だ、誰でもいいから助けを)

 それは、この場所で不用意に魔法を使えない少年が出来るたった1つの事。

 ホープは村の中を走る。上で確認しただけでも6体、いや7体くらいのアナザーがいた。

(あれは……ケスリノさん!?)

 視界にリンゴをくれた男が入る。彼は杖を持った血塗れの右手を押さえながら、アナザーと対峙していた。

(あんな怪我じゃ直ぐに)

 ホープの目に入ったのは建物に立て掛けてあった箒……。

 少年はそれを手に持ち、そして……。


 周りから聞こえる叫び声や戦いの音。箒を持った少年は勇敢にアナザーに立ち向かう……事はなかった。
 誰かに助けを求める事も、村から逃げ出す事も、敵に立ち向かう事も出来ずに、少年は戦いが続く村の中、その民家の一つで箒を持って、ただ震えていた。

(僕は)

 まるで箒に縋るようにしながら少年は泣いている。

(最低だ)

 彼がそう思ったのは今の自分の状況にだけではなかった。アナザーと初めて対峙し、逃げろと2人に言われた時、少年の心はある感情で一杯になったのだ。

 良かった……。ホープはそう思ってしまった。

(何が皆大好きだ。逃げれて喜んで、友達も村の人まで見捨てて、挙げ句にこんな所で隠れてる)

 ホープは泣いて震えながら、それでも何も出来ない自分が情けなくて仕方なかった。

(僕は本当に最低の人間だ……)

 窓から外を見る。そこではケスリノが懸命に戦っていた。不意にホープと目が合う。

(え?)

 ケスリノの口が動く。勿論声は出していない。彼の口はハッキリとこう動いた。

(逃げ……ろ?)

 彼は怪我をしながらも、ホープを気遣う。明らかに彼の方が危険な状態であるにも関わらず。

(ぼ、僕は……)

 箒に強く頭を押し付けながら、少年がまた涙を流す。

(どうしたら?)

 少年は無力だった。だが、この状況が正しいとは彼には思えない。瞳を閉じる。思い出すのは……。

(母ちゃん)

 憧れの大魔道士。彼女ならどうするか?

(でも今の僕に出来ることなんて……)

 少年は箒を強く握り締め、震える事しか出来なかった。


(このままじゃ不味い)

 ケスリノの右手の感覚はほぼなくなっていた。何とか支えながら杖を使っているが限界が近い。
 アナザーはまるで楽しむように爪を振るう。転がりながら何とか避けるが、立ち上がろうとした彼を目眩が襲った。その顔目掛けて迫る爪に、咄嗟に目を閉じる。

(くっ……)

 ――カンッ!

 いつまでも来ない爪にゆっくり目を開けるとそこには……。

 手に待った箒をアナザーに振り下ろしたホープがいた。

「ホープ!?」

「僕の知る大魔道士は」

 箒を持つ手も、体も震わせて、少年はそれでも恐怖と向き合い、その場に何とか立っていた。

「絶対に逃げない!」

 意味のないことだとは分かっている。だけど母を、憧れの大魔道士の事を思い出した時、体が勝手に動いていたのだ。奥歯と足を震わせながらも、少年はアナザーの前に立った。

「か、掛かってこい」


 少年が地面を転がる。アナザーはまるで玩具で遊ぶようにホープをいたぶっていた。
 ケスリノはそれを見て何度も立ち上がろうとするが体に力は入らない。

 少年は殴られ宙を舞いながら思った。これは皆を見捨てようとした自分への罰なのだと。

「がっ!」

 背中から家屋にぶつかり、肺の空気が全て吐き出されたような感覚。少年は理解した。目の前のこいつは力を抜いている。自分とこいつはあくまで狩人と獲物の関係なのだと。

(ははっ……最低な僕にはお似合いだ)

 一度、二度、攻撃が入る。体が宙を飛び、何かにぶつかって止まる。その繰り返し。

 意識が朦朧としてくる。

 何処かで頭がもう駄目だと理解した。

(ホープ村の始祖様どうかお願いします。僕はもうどうなってもいい。だから、ジャスもトゥルーも、村の皆、全員を助けてください)

 それは少年の最後の願い。ボロボロになりながらもそれだけを願う彼の意識は途切れ……。

「……」

「お前」

「うちの愛する息子に何してんだ?」

「母……ちゃん……?」

 朦朧とする息子の前に立ったのは、真紅の大魔道士ノノア・クリムゾンその人だった……。



「母……ちゃん……僕、二度も逃げて……なのに安心して……最低で!ごめん……なさい」

 少年がボロボロと涙を流しながら、最低な自分を母に謝罪する。彼女はそんなホープの頭に手を乗せた。

「頑張ったね、ホープ」

 その頭を優しく撫でながら、彼女はニッコリと笑った。

「逃げたい時は大人だろうが子どもだろうが、いつだって逃げていいんだよ」

 少年に諭すように続ける。

「でもね、その代わりに通った道はちゃんと振り返りなさい。もし次にその道しか選べなくなった人がいたら、隣に立ってあげられるように」

 優しく、力強い言葉……。

「そんな時の為に私たちがいるんだから」

 そしてゆっくりと立ち上がった彼女は、アナザーに向き直る。一瞬で距離を詰め、アナザーに三撃。まるでハンマーで殴るような威力の杖でアナザーを殴った。相手は怯んではいるがダメージはない。

「腕力(ストロング)」

 四、五、六撃。先程より強化された連撃が、相手の体に小さなヒビを作った。

「やっぱり私の力じゃこの程度か……。なら」

「風爆(エアロ)」

 魔石から凝縮された風がアナザーの足元を掬い上げ、地面の上にうつ伏せに倒す。

「一気に行くわよ! 太陽(サン)」

 呪文を唱えると同時、杖についた青い大きな魔石に魔力が集う。瞬きもしない内に、それは大きな火球となって、輝き始めた。
 それを上に掲げ、発射する。自分に向けて撃たれると思ったアナザーは不思議な顔をしている。
 太陽と呼ばれた魔法は上空にグングンと登り、やがてピタリと止まった。
 魔法の遥か下で目を閉じたまま、彼女が次の呪文を唱える。

「広範囲探索(エリアサーチ)」

 魔石を中心に緑の魔力の波が球形に拡がっていき、その範囲はやがて村を丸ごとをすっぽりと覆った。

「6、7、8、いや全部で9ね。これぐらいならまだ使わなくて大丈夫そう」

 ノノアは目を閉じたまま、何かの数を数えた。そのまま杖を上空の魔法に向けて掲げ、また呪文を唱える。

「追尾(チェイス)」

 魔石を中心に今度は赤色の魔力の波が拡がる。

「隕石(メテオ)」

 彼女がそう叫んで杖を振り下ろすと同時。空の上で輝き続けていた火球が分裂を始めた。凝縮された炎の玉が1つ、目の前でうつ伏せのまま倒れているアナザー目掛けて落ちて来た。勿論それで終わりではない。
 幾つもに分裂した大きな炎の玉が1つ、また1つと飛んでいく。それは無造作に放たれた訳ではない。

 1つは、逃げる村人を追うアナザーの背中に。

 1つは、仲間を庇う村人を襲おうとする怪物の頭部に。

 1つは上空で村を見渡していた化け物の腹部に。

 その全てが村を荒らすアナザーに直撃していた。

「むっ?やっぱり堅いな」

 目の前で炎の玉を食らうアナザーを見ながら彼女が呟く。背中で燃え続ける炎の玉は、化け物の背中に大きな放射状のひび割れを作っていた。

「なら……」

 もう一度目を閉じ、杖を掲げる。

「広範囲魔力操作(エリアコントロール)」

「属性変換(チェンジ)」

 1つ目の呪文で、それぞれの炎の玉を捉え、2つ目で変える。村の各所、アナザーの体にぶつかったままメラメラと燃え続けていた炎の動きがピタリと止まった。
 まるで水面に色水を落としたかのように、炎が黒色の半透明の球体に形を変えていく。

「重力槌(グラビティハンマー)」

 振り下ろされる杖のタイミングに合わせて、半透明の球体が内側への強い圧力を持ちながら、アナザーのひび割れた体を潰していく。

「これで終わりよ!」

 ――ガンッ!!と一際大きな音が響き、目の前にいるアナザーの背中から胸にかけて、大きな空洞が出来上がった。

「グルッ!?」

 村の各所にいた同じ魔法を食らった怪物達も、傷口から発光する青白い液体を出しながら、同時に絶命し、塵となってその場から消え去った。

「大魔道士は、どんな絶望的な状況でも、未来へ繋がる魔法に手を伸ばすものよ」

 ニッコリと笑いながら大魔道士は呟く。

「……母……ちゃん」

「ホープ大丈夫!?」

 少年はボロボロの体で何とか立ち上がる。それにノノアが肩を貸していると……。

「ノノア!ホープ!」

 何人かの村人を連れて、ホープの祖母が走ってくる。

「お母さん! お父さんは?」

「あの人は、他の人の安否を確かめに行ってるわ」

「母ちゃん来てくれたんだね」

「勿論よ!私を誰だと思ってるの?」

「最高にカッコいい大魔道士」

「ふふっ、分かってるじゃない」

「そうだ!ジャスとトゥルーが村の外で襲われてて……」

「2人が!?分かった直ぐに……」

 ――その時だった。少年に肩を貸してくれていた母が不自然に体勢を崩す。

「えっ?」

 村を襲っていた怪物達をほんの数分で倒した大魔道士ノノア。

 その左足が突然切断される。

「母ちゃん!!」

 希望の村、ホープ……。

 破滅へのカウントダウンは既に始まっていた。

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