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【本との出会い 41】雑誌「世界」7月号~沖縄半世紀の群像~

購読している雑誌「世界」。いまひとつ踏み込まないメディアの中で、やや強い姿勢、批判目線で切り込む記事が貴重です。

今月も、「返還50年を迎えた沖縄」について、ロシアウクライナの衝突について興味深い記事がありましたので紹介したいと思います。

1.(短期連載)沖縄半世紀の群像~牛島満司令官のお孫の取り組み~



孫として祖父の戦争、沖縄の戦争について慰霊の在り方や、報道、教育のありかたに疑問をもち、自身も教育者として事実検証、沖縄の立ち位置について意見しています。

①沖縄戦を政府は(自衛隊も)検証していないと悲劇は繰り返す

沖縄では米軍との激突で県民が4人に1人犠牲になるという悲劇が起こりました。
敗戦が8月15日でしたが、実際沖縄の戦闘が終結したのは9月7日でした。
なぜ、ここまで伸びたのでしょうか。

牛島満司令官は、軍隊の戦闘を指揮し、最後は自決いています。
自決時、「最後まで勇敢に戦え」「自分も本土決戦には英霊として戦う」のような言葉を残しています。

考察では、そうした軍隊司令部の指示が、降参を阻み、犠牲者を増やし終結が遅れた原因のひとつだとしているようです。

それと、軍隊の南部への撤退が、非戦闘員の県民の犠牲者を増やしたという説がありますが、軍隊や住民の投降を阻んだことと含め、当時の軍は、司令部は、「沖縄戦は、本土決戦までの時間稼ぎである」という大前提があったための事象と言っています。

②沖縄県民への偏見、差別

犠牲者が増えた原因の背景には、日本兵の沖縄県民に対する差別、偏見が少なからずあったようです。

言葉が違う沖縄の人を、スパイとして疑いを持っていたことから、米軍ではない敵意識のようなものが、犠牲を生む温床になっていたという指摘です。

牛島司令官は、「米軍は非戦闘員を虐殺などしない」と認識していたようで、それならばなぜ投降できなかったのか?という疑問について、その偏見や、司令官が残した最後の指示などが背景にあると言ってます。

③司令部壕を遺跡として残し公開すること

戦没者追悼式での首相の式辞で「日本の平和は沖縄の人たちの犠牲の上にある」と言っていることを間違いだと言っています。

こういう言葉が、昇華、称賛を呼び、戦争の責任を覆い隠すと。

首里城の復興が行われていますが、その地下に1キロにもわたる司令壕の跡地があるそうです。
そこを遺構として整備し、広く国民に公開することで、沖縄の当時の真の姿を学ぶことができると。

2.沖縄復帰50年の逆説~変わらないこと目を~

①政権の劣化~首相式辞の歴史認識相違~


「戦争によって失われた領土を外交交渉で獲得したことは史上まれ」との発言は、沖縄がアメリカの領土となって戻ったという完全なる認識相違。

こういうことを、誰もチェックなく、首相が公の場で述べてしまう政権の劣化を指摘しています。

②沖縄の基地負担は増す一方

ウクライナ侵攻と、台湾有事の危機意識から、政治家の意見もきな臭くなっているが、誰も有事になると基地のある沖縄が標的になることを言いいません。
まさに「構造的、差別的」。





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